漢字でよむ おくのほそ道 第1回
はじめに

漢字でよむ 奥のほそ道
2007年4月25日


はじめに


 
日本語は、漢字を音読み訓読み自在に使いこなすことによって、その表情が豊かになり美しくなった。

その典型的な作品は、松尾芭蕉の「おくのほそ道」である。

そして、「おくのほそ道」は、旅の文学でもある。

旅とは出逢いでもある。

人の一生も、旅そのものであろう。何と、どのように出逢いながら、その日々を過ごすものであろうか。


作品はまた、芭蕉さんの歩行(かち)の記録でもある。

「歩」という漢字は、左右の足跡を重ねた形である。

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そして、地に足をつけて歩くということは、単に宇宙空間を移動するということではない、その地の地霊と接する行為でもあるのである。

古代から、例えば、重要な儀礼の場所に到る場合、王者といえども車から降りて、徒歩でもってそこへ向かうものであったという。

「おくのほそ道」は、その地その地の、土地の神々との対話の記録でもあるのだ。


「ほそ道」への旅立ちは、旧暦3月27日、今の暦なら5月16日ということになっている。

さあ、私たちも、松尾芭蕉の「おくのほそ道」に誘われながら、初夏の旅へとでかけようではないか。
 

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【著者プロフィール】 伊東信夫(いとう・しのぶ)

1926年、山形県生まれ。白川漢字学の系譜に連なる漢字研究家。
1947年、山形の冬季分校の教師となって以来、長く教職に携わる。
現在は、漢字学の研究と共に、子どもや教師たちに漢字のおもしろさを伝えるため、各地で講演するなど、活躍中。主な共著書に「漢字カルタ」「漢字はみんな、カルタで学べる」「漢字がたのしくなる本」シリーズ(いずれも太郎次郎社)、「成り立ちで知る 漢字のおもしろ世界」シリーズ(スリーエーネットワーク)がある。
現在、立命館大学 白川静記念東洋文字文化研究所客員研究員。

漢字でよむ おくのほそ道 第2回
序章

漢字でよむ 奥のほそ道
2007年5月9日



序 章


■ 原文 ■


月日は百代の過客にして、行かふ年も又旅人也。舟の上に生涯をうかべ馬の口とらえて老をむかふる物は、日々旅にして、旅を栖とす。古人も多く旅に死せるあり。予もいづれの年よりか、片雲の風にさそはれて、漂泊の思ひやまず、海浜にさすらへ、去年の秋江上の破屋に蜘の古巣をはらひて、やゝ年も暮、春立る霞の空に、白川の関こえんと、そゞろ神の物につきて心をくるはせ、道祖神のまねきにあひて取もの手につかず、もゝ引の破をつゞり、笠の緒付かえて、三里に灸すゆるより、松島の月先心にかゝりて、住る方は人に譲り、杉風が別墅に移るに、
  草の戸も住替る代ぞひなの家
面八句を庵の柱に懸置。


原文出典:『芭蕉 おくのほそ道』岩波書店



■ 訳 ■


年月(時間)は永遠の旅人であり、来てはすぎ去る年年(としどし)もまた同様である。舟の上で暮らす船頭、馬をひいてすごす馬子などは毎日が旅であり、諸先輩の多くも旅の中で一生を終えている。

私もいつのころからか旅の心にあこがれ、長途の旅に身をゆだね、やっと昨年の秋、江戸のわが家にもどったのであるが、年が明ければ、もう、未だ見ぬ地である陸奥(みちのく)へと心が飛んで、それは落ち着くことができない。噪々(そそ)として、もう、旅支度である。

そして、住居は人手に渡し、門人の杉風の別宅に一時移り、旅立ちをまつ。

  草の戸も住替る代ぞひな
(※)の家
※かざり雛

一句(※後注)を旧庵の柱に懸け置く。



■ 注釈 ■


漢語・和語の使いわけ

この冒頭の文は、従来、多くの人に暗誦されてきた名文である。

文は「月日(つきひ)は」という和語(わご)ではじまるので、「百代(はくたい)の過客(かかく)にして・・・」と、やわらかな和語調でスタートする。

つづいて、自らの旅心におちつかない叙述になると、…「片雲(へんうん)の風」「漂白(ひょうはく)の思ひ」「海浜(かいひん)にさすらへ」「江上(こうしょう)の破屋(はおく)」…と、漢語で述べられている。

やわらかな和語調でスタートしたことが、漢語との対比で、文章がきりりとしまる。

このようにして心の昂揚の表現効果をつくるということは、日本の文章表現の特徴といってもよいものなのである。

これが、漢字を音読みと訓読みに使い分け、和語・漢語を自在につかいこなす、日本の伝統なのである。



「百」を「はく」と読むことについて

今は「百」を「ヒャク」と訓む読みの例しかなくなってしまった。

しかし、「百」という文字の成り立ちから考えたら、「百」は「一+白」(イチ+ハク)と分解できる字なのである。

古代文字では「二百、三百、…五百」を

百最終

と書き、もともとは「二と白(ハク)・三と白(ハク)…五と白(ハク)」なのであった。

つまり、漢字の数表記は、一の位であれば、一〜四は、棒を横に、十の位なら棒を縦にならべてあらわし、百の位は、「白(ハク)」に、一、二、三…を加え、千の位なら

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 に、一、二、三…を加えて

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と表現したのである。

…従って、「月日は百代(はくたい)の…」と読むのは、この「ほそ道」だけの特殊な場合であるとか、奇を衒った訓みとか考えるべきではなく、ごく普通に考えられることなのである。



途中に句点(。)のない一文

心の昂揚の表現をつくっている手段となっている、もうひとつのことは、「予もいづれの年よりか…」以後、途中ひとつとして句点のない一文で綴られているということである。

こういう離れ業的な作文は、並の文章力ではできるものではない。

暗誦によって味わうべき作品である。



「面八句」について

俳諧(はいかい)という日本の文芸。長短36句でまとめるのを歌仙(かせん)といい、100句でまとめるのを百韻(ひゃくいん)という。

「面八句」とは、この百韻における、第一頁の8句のことをいう。





【著者プロフィール】 伊東信夫(いとう・しのぶ)

1926年、山形県生まれ。白川漢字学の系譜に連なる漢字研究家。
1947年、山形の冬季分校の教師となって以来、長く教職に携わる。
現在は、漢字学の研究と共に、子どもや教師たちに漢字のおもしろさを伝えるため、各地で講演するなど、活躍中。主な共著書に「漢字カルタ」「漢字はみんな、カルタで学べる」「漢字がたのしくなる本」シリーズ(いずれも太郎次郎社)、「成り立ちで知る 漢字のおもしろ世界」シリーズ(スリーエーネットワーク)がある。
現在、立命館大学 白川静記念東洋文字文化研究所客員研究員。

漢字でよむ おくのほそ道 第3回
旅立

漢字でよむ 奥のほそ道
2007年5月16日



旅 立


■ 原文 ■


弥生も末の七日、明ぼのゝ空朧々として、月は在明にて光おさまれる物から、不二の峰幽にみえて、上野・谷中の花の梢、又いつかはと心ぼそし。むつましきかぎりは宵よりつどひて、舟に乗て送る。千じゆと云所にて船をあがれば、前途三千里のおもひ胸にふさがりて、幻のちまたに離別の泪をそゝぐ。
  行春や鳥啼魚の目は泪
是を矢立の初として、行道なをすゝまず。人々は途中に立ならびて、後かげのみゆる迄はと、見送なるべし。


原文出典:『芭蕉 おくのほそ道』岩波書店



■ 訳 ■


旧暦3月27日、春霞に明けた空には、遥かな富士の眺望とかすかな残月。

上野の山の花見も再びかなうだろうかと心ぼそい。

親しい人々は、昨夜から別れの宴をもうけてくださり、いっしょに隅田川を舟で上る。

千住にて上陸。ここがはるかなる旅の出発点であり、人々との別れの地点でもあるかと思えば、万感胸にせまるものがある。

  行春や鳥啼魚の目は泪

これを旅の第一作としたのであるが、なかなか足取りがすすまない。見送る人々も道に立ちつくしたまま立ち去りかねるようである。




■ 注釈 ■


「別れ」の表現

「むつましきかぎりは宵よりつどひて、舟に乗りて送る。」…と、やわらかな和文調の文で進んできたのが、突如「前途三千里」と、漢語調に変わり、そして、「離別の泪をそゝぐ」とつながる。

これは睦(むつ)ましかった人々との「別れ」の表現である。

「別れ」が、ぷつん!と音を立てているようだ。

…「離別の泪」という漢語表現に注意。

「前途三千里のおもひ胸にふさがりて、幻のちまたに離別の泪をそゝぐ」と、声に出してよんでほしい。

「離別の泪」が、「別れのなみだ」と置き替えられたら、なんと目茶苦茶で話にならないことか。

・・・「別離の泪」であってさえ、すてきな音感にはならないことがわかるだろう。

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”鳥啼魚の目は泪”について

ここは、鳥啼く春と、老いたる吾を対比している表現である。

「魚の目に泪」を漢字にすると
カン となる。

トウ は、目から垂れる水であり、これが涙のもともとの字である。

そして、「魚」は、漢字の世界では、女性の意味。

「鰥」とは、連れ合いの婆さんに先立たれて、よよと涙をながすやもめの爺さんのことをいうのである。

だから、「魚の目の泪」とは、男性の老いたるものなのである。





【著者プロフィール】 伊東信夫(いとう・しのぶ)

1926年、山形県生まれ。白川漢字学の系譜に連なる漢字研究家。
1947年、山形の冬季分校の教師となって以来、長く教職に携わる。
現在は、漢字学の研究と共に、子どもや教師たちに漢字のおもしろさを伝えるため、各地で講演するなど、活躍中。主な共著書に「漢字カルタ」「漢字はみんな、カルタで学べる」「漢字がたのしくなる本」シリーズ(いずれも太郎次郎社)、「成り立ちで知る 漢字のおもしろ世界」シリーズ(スリーエーネットワーク)がある。
現在、立命館大学 白川静記念東洋文字文化研究所客員研究員。

漢字でよむ おくのほそ道 第4回
仏五左衛門

漢字でよむ 奥のほそ道
2007年5月23日



仏五左衛門


■ 原文 ■


卅日、日光山の麓に泊る。あるじの云けるやう、「我名を仏五左衛門と云。万正直を旨とする故に、人かくは申侍るまゝ、一夜の草の枕も打解て休み給へ」と云。いかなる仏の濁世塵土に示現して、かゝる桑門の乞食巡礼ごときの人をたすけ給ふにやと、あるじのなす事に心をとゞめてみるに、唯無智無分別にして正直偏固の者也。剛毅木訥の仁に近きたぐひ、気稟の清質、尤尊ぶべし。


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原文出典:『芭蕉 おくのほそ道』岩波書店



■ 訳 ■


(3月)30日、日光の麓の宿に宿泊する。

その主人は言う。

「私は名を仏五左衛門といいます。万事ものごとに対しては、正直一辺倒をモットーにしていますので、他人様はこう呼んでくれています。そういうわけですから、今夜は安心してお休み下さい。」という。

…一体全体、どのような仏性が現世にあらわれ、この乞食姿の僧形のものをお助けになるのであろうと、主人のすることに注意してみるのだが、要するにただ正直なだけがとりえというもの。

孔子の言にある「剛毅木訥の仁」、俗にいう律儀者なのである。…が、こういう心の清い人こそ尊い人間性というべきものではなかろうか。




■ 注釈 ■


仏五左衛門的人物

人間、自分の特性が世間からちゃんと認められないでいると感じたら、自己を顕示したくなるものである。

私の故郷の山形にも、むかし新庄駅の駅員氏に、そういう人物がおった。

彼は、ラウドスピーカーなどのなかった時代の列車の案内係であって、「しんじょー、しんじょー、なるご・こごた方面、さかた・つるおか方面乗り換えー。」と、入る列車ごとに、肉声で案内する人であった。

自らは美声のもちぬしであるという自負をもっていることはもちろん、上記の案内のスタイルは、自分の発案であり、他の駅の案内は、それを真似たものである、と主張している人であった。

私がその駅員氏を知ったのは、彼がとうに退職し、自らが興した「江口旅館」の主人におさまり、囲炉裏ばたにあぐらをかいて、さかんに「俺をもって嚆矢(こうし)となす。」という言葉を連発しているころであった。

「嚆矢」とは、開戦にあたって放つかぶら矢のことであって、物事のはじめをあらわす。

しかし私は、それを「孔子」とかんちがいしておった。

ずいぶん法螺を吹く爺さんだと思っておったが、辞典で知って、えらい言葉を知ってるもんだ…とおどろきもした。

しかし、今考えても、仏五左衛門的人物であったことにはまちがいない。





【著者プロフィール】 伊東信夫(いとう・しのぶ)

1926年、山形県生まれ。白川漢字学の系譜に連なる漢字研究家。
1947年、山形の冬季分校の教師となって以来、長く教職に携わる。
現在は、漢字学の研究と共に、子どもや教師たちに漢字のおもしろさを伝えるため、各地で講演するなど、活躍中。主な共著書に「漢字カルタ」「漢字はみんな、カルタで学べる」「漢字がたのしくなる本」シリーズ(いずれも太郎次郎社)、「成り立ちで知る 漢字のおもしろ世界」シリーズ(スリーエーネットワーク)がある。
現在、立命館大学 白川静記念東洋文字文化研究所客員研究員。

漢字でよむ おくのほそ道 第5回
日光<黒髪山>

漢字でよむ 奥のほそ道
2007年5月30日




日光<黒髪山>


■ 原文 ■


黒髪山は霞かゝりて、雪いまだ白し。
  剃捨て黒髪山に衣更  曾良
曾良は河合氏にして惣五郎と云へり。芭蕉の下葉に軒をならべて、予が薪水の労をたすく。このたび松しま・象潟の眺共にせん事を悦び、且は羈旅の難をいたはらんと、旅立暁髪を剃て墨染にさまをかえ、惣五を改て宗悟とす。仍て黒髪山の句有。「衣更」の二字、力ありてきこゆ。


原文出典:『芭蕉 おくのほそ道』岩波書店



■ 訳 ■


黒髪山(男体山・2484m)は、霞がかかっていて、山頂には白く雪が残っている。

  剃捨て黒髪山に衣更(ころもがえ)

こう詠む曾良は、もともと、姓が河合で、名を惣五郎という士(さむらい)階級の者であった。それが私の弟子となり芭蕉庵の近くに居をかまえ、私の食事をはじめ生活全般のめんどうを見てくれておった。

それがこの度、奥州路の旅をともにすることを喜び、かつまた、旅の難儀を助けようと、旅立ちに際し剃髪し、僧形(そうぎょう)に姿をかえ、名まえも、「惣五」を改めて「宗悟」とし、私に従ってきたのである。

曾良の句の「衣更」の二字、季語として適切であるだけでなく、出家と行脚(あんぎゃ)の決意があらわれていて、まさに秀逸である。




■ 注釈 ■


吾と出逢う

曾良は、山頂未だ白い黒髪山に、僧形となった自分の姿を映すのである。この章は、曾良の、自分との出逢いを描く章である。

黒髪山(男体山)は、山頂まで黒々と樹木に覆われた山であり、今の暦でいえば、5月の半ばにおいて山頂に雪の残るはずはない。

従って、山頂白い男体山は、芭蕉さんの文学的な設定である。

それは、曾良を「決意した吾」との出逢いを果たさせるための文章上の設定である。

人は、鏡などに映し、客観的なものにすることによって、はじめて、自らが見えるようになるものなのであろう。

なお、「衣更え」は、旧暦の4月1日、冬服から夏服に着替えるときである。

…ところで、「衣」は、古代文字では

衣最終

とかき、これは、着衣の襟もとの形である。

「衣」とは、漢字では、体を被うだけのものではなく、命を包み守るものという意味がある。

従って、「衣更え」とは、単に衣服をかえるというだけでなく、生き態(ざま)をかえるという意味をもふくむものであろうと思う。





【著者プロフィール】 伊東信夫(いとう・しのぶ)

1926年、山形県生まれ。白川漢字学の系譜に連なる漢字研究家。
1947年、山形の冬季分校の教師となって以来、長く教職に携わる。
現在は、漢字学の研究と共に、子どもや教師たちに漢字のおもしろさを伝えるため、各地で講演するなど、活躍中。主な共著書に「漢字カルタ」「漢字はみんな、カルタで学べる」「漢字がたのしくなる本」シリーズ(いずれも太郎次郎社)、「成り立ちで知る 漢字のおもしろ世界」シリーズ(スリーエーネットワーク)がある。
現在、立命館大学 白川静記念東洋文字文化研究所客員研究員。

漢字でよむ おくのほそ道 第6回
那須

漢字でよむ 奥のほそ道
2007年6月6日



那 須


■ 原文 ■


那須の黒ばねと云所に知人あれば、是より野越にかゝりて、直道をゆかんとす。遥に一村を見かけて行に、雨降日暮る。農夫の家に一夜をかりて、明れば又野中を行。そこに野飼の馬あり。草刈おのこになげきよれば、野夫といへども、さすがに*情(じょう)しらぬには非ず。「いかゞすべきや。されども此野は縦横にわかれて、うゐうゐ敷旅人の道ふみたがえん、あやしう侍れば、此馬のとゞまる所にて馬を返し給へ」とかし侍ぬ。ちいさき者ふたり、馬の跡したひてはしる。独は小姫にて、名を「かさね」と云。聞なれぬ名のやさしかりければ、
  かさねとは八重撫子の名成べし   曾良
頓て人里に至れば、あたひを鞍つぼに結付て馬を返しぬ。
*ルビは筆者による


原文出典:『芭蕉 おくのほそ道』岩波書店




■ 注釈 ■


「優しさ」を知る

この「那須」の章は、草刈る農夫との出逢いに「野夫といへども、さすがに情しらぬには非ず」と感動することをあらわす重要な一章である。

即ち、日本の人々とは、人に対し、いかに心やさしく、ゆかしくつきあうものであるか、ということを示しているところなのである。

芭蕉さんは、迷路のごとくいりくんだ那須野が原に迷い困惑して、農夫にすがる。

それに対して農夫はまずはじめに「いかがすべきや(どうしたらいいでしょうね)」というのである。

これは、うつべき手だてがみつからなくて困っているのではない。

困っている相手の立場になるのである。

そういう言い方で、まず相手に同情の気持ちを伝えるのである。

これは、まことに、おくゆかしい心づかいなのではないか。

そうしておいて、次につづくことばは、「旅の者なら、ここで迷うのは、当然のことなのだよ」と伝えておいて、そして最良の方法、つまり、わが馬を貸し与えようというのである。

…馬というものは、道をよく知っているものである。この馬に乗っていき、その止まった所が目的の黒羽である。安心してこの馬をお使いなさいと、貸し与えるのである。

さらに、この馬を返すには、馬の首を反対に向けて、お尻をひとつ、ぽんと打てばよい。馬はひとりで、必ず帰りつく…とも伝えたはずである。

この農夫の厚情に対する芭蕉さんも、さすがである。

大事な馬を借りるのであるから、普通なら、「謝礼は如何ほど?」と問うだろう。しかし、そうしたなら、「とんでもない」と、ことわられるだけである。

芭蕉さんには、そのような謝意の示し方はすべきでないことは、よくわかっているのである。それで、謝礼は帰り馬の鞍つぼに結びつけるということになるのである。

これが、優しさに対する優しさの応答なのであり、これがむかしからの日本人の心づかいなのである。





【著者プロフィール】 伊東信夫(いとう・しのぶ)

1926年、山形県生まれ。白川漢字学の系譜に連なる漢字研究家。
1947年、山形の冬季分校の教師となって以来、長く教職に携わる。
現在は、漢字学の研究と共に、子どもや教師たちに漢字のおもしろさを伝えるため、各地で講演するなど、活躍中。主な共著書に「漢字カルタ」「漢字はみんな、カルタで学べる」「漢字がたのしくなる本」シリーズ(いずれも太郎次郎社)、「成り立ちで知る 漢字のおもしろ世界」シリーズ(スリーエーネットワーク)がある。
現在、立命館大学 白川静記念東洋文字文化研究所客員研究員。

漢字でよむ おくのほそ道 第7回
殺生石・遊行柳

漢字でよむ 奥のほそ道
2007年6月13日



殺生石・遊行柳


■ 原文 ■


是より殺生石に行。館代より馬にて送らる。此口付のおのこ、「短冊得させよ」と乞。やさしき事を望侍るものかなと、
  野を横に馬牽むけよほとゝぎす
殺生石は温泉の出る山陰にあり。石の毒気いまだほろびず、蜂・蝶のたぐひ、真砂の色の見えぬほどかさなり死す。
又、清水ながるゝの柳は、蘆野の里にありて、田の畔に残る。此所の郡守戸部某の、「此柳みせばや」など、折をりにの給ひ聞え給ふを、いづくのほどにやと思ひしを、今日此柳のかげにこそ立より侍つれ。
  田一枚植て立去る柳かな


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原文出典:『芭蕉 おくのほそ道』岩波書店



■ 訳 ■


これから、殺生石(せっしょうせき)へと向かうのであるが、黒羽の城代家老である浄法寺氏は、送りの馬をつけてくださった。

途中、その馬子さんが、「一句頂戴できませんでしょうか。」と所望する。馬子さんにしては風雅なことよ…と、即興の一句。

  野を横に馬牽むけよほとゝぎす

この山野に満ちみちているほととぎすの声。そうだ、ここで馬をとめ、その声とまともに向き合って聞こうではないか。風流を解するそなたと共に−。

殺生石は、温泉の湧く山陰にある。

その噴き出す毒気は衰えておらず、あたりには、蜂や蝶などの死骸がつみ重なって地べたも見えないほどである。

また、西行法師(さいぎょうほうし)が、

  道のべに清水ながるゝ柳かげしばしとてこそ立ちどまりつれ

と詠んだ「清水ながるゝの柳」あるいは「遊行柳(ゆぎょうやなぎ)」といわれる柳の木は、蘆野(あしの)の村の田の畦道に今も残っている。

そして、この地の領主である方が、「その柳を、実際にお見せしたいものだ」と、ときどきお便りをくださっておったので、一見したいものとずっと思いつづけておった。

それがとうとう今、その陰に立つことが現実となった。…その感動にひたっている間に、附近に田植えする農夫は、既に田一枚を植えおえてしまっている。

  田一枚植て立去る柳かな




■ 注釈 ■


殺生石

むかし、一匹の老狐があって、それが、「玉藻の前(たまものまえ)」という美女に化け、時の鳥羽上皇に取り入ろうとしたが正体を見破られ、那須野まで逃れて石と化したとされるもの。


遊行柳

西行法師は、芭蕉さんより約500年前の平安時代後期の歌人。

同じように、諸国を行脚(あんぎゃ)した人である。

「遊行」とは、諸方を旅することであり、その西行法師のたたずんだ柳というわけで、一名「遊行柳」といわれる。

なお、その遊行柳は植え替えられ、植え替えられて、今もその地に現存している。





【著者プロフィール】 伊東信夫(いとう・しのぶ)

1926年、山形県生まれ。白川漢字学の系譜に連なる漢字研究家。
1947年、山形の冬季分校の教師となって以来、長く教職に携わる。
現在は、漢字学の研究と共に、子どもや教師たちに漢字のおもしろさを伝えるため、各地で講演するなど、活躍中。主な共著書に「漢字カルタ」「漢字はみんな、カルタで学べる」「漢字がたのしくなる本」シリーズ(いずれも太郎次郎社)、「成り立ちで知る 漢字のおもしろ世界」シリーズ(スリーエーネットワーク)がある。
現在、立命館大学 白川静記念東洋文字文化研究所客員研究員。

漢字でよむ おくのほそ道 第8回
白川の関

漢字でよむ 奥のほそ道
2007年6月20日



白川の関


■ 原文 ■


心許なき日かず重るまゝに、白川の関にかゝりて旅心定りぬ。「いかで都へ」と便求しも断也。中にも此関は三関の一にして、風*騒の人心をとゞむ。秋風を耳に残し、紅葉を俤にして、青葉の梢猶あはれ也。卯の花の白妙に、茨の花の咲そひて、雪にもこゆる心地ぞする。古人冠を正し衣装を改し事など、清輔の筆にもとゞめ置れしとぞ。
  卯の花をかざしに関の晴着かな   曾良


*「騒」は実際は馬へんに喿と書きます。


原文出典:『芭蕉 おくのほそ道』岩波書店



■ 訳 ■


決意して出発(たびた)ったはずであったが、ここに到るまでは、不安定な日数であった。

しかし、ここ白河の関に到って、やっと旅心が定まった。この関に残る最古の歌、平兼盛(たいらのかねもり)の

  便りあらばいかで都へ告げやらむけふ白川のせきはこゆると

と歌った感動ももっとものことと共感できる。

古来、この白河の関は、蝦夷地(えぞち)と境する重要な関所であり、多くの歌人が歌を残したところである。

  都をば霞とともに出(いで)しかど秋風ぞふくしら河のせき

という、有名な能因法師(のういんほうし)の歌をはじめ、紅葉にも青葉にも、それぞれに多くの歌が残されている。

そして、今、時は真っ白な卯の花の季節、その上、茨の花の白まで加わって、まるで雪中を越えゆくような錯覚さえおぼえる。

むかし、竹田大夫国行(たけだのたいふくにゆき)という者が、この関を越えるとき、わざわざ衣冠を改めて正装したというエピソードが、藤原清輔(ふじわらのきよすけ)の『袋草子(ふくろそうし)』という著作に伝えられている。

しかし、われわれの正装は、ここに咲く卯の花の一枝を折って、髪に挿す、ただそれだけなのである。

  卯の花をかざしに関の晴着かな   曾良




■ 注釈 ■


なぜ関の通過に正装するのか

それは、古代からの風習であった。

旅の途中、名だたる難所や景勝の地を通過する場合、そこの地霊(ちりょう)・地の神へ、敬虔な祈りを捧げる。

その景観を愛でるということは、即ち、そこの地の神のみ姿を褒め讃えるという行為であった。

従って、関の通過にあたって、衣装を改めるということは、その地の神に対する礼儀なのである。

関の通過にあたって、関の神へ敬虔な祈りを捧げるだけではない。必ず、歌をも捧げるものであった。

…白河の関に残されている多くの歌、芭蕉さん師弟の捧げる一句、それはみな、関の神への献歌なのである。


漢字が教えてくれる古代の旅

故白川静博士の漢字学から得られる知識には計り知れないものがある。

旅とは、通過でもある。

通過の「過」は、人の上半身の骨格の形である

過ぎる1 と、

祈りのことばをあらわす

過ぎる3 と、

過ぎる2 とから成る漢字。

古代の路傍(みちばた)、そこは、行き倒れた人の遺骨のうずもる所でもあった。

従って通過にあたっては、それらの遺骨に対して祈りをささげて過ぎる。

それが、旅の禍いを避ける方法であった。

…「五木の子守唄」の

おどんがうっ死んだば 道ばっちゃいけろ 通る人ごち花あぎゆ

私が死んだら路ばたに埋めてくれ
そうしたら通る人が花を供えてくれるだろうから

という一節も、遠いとおい古代からの風俗からうまれたものだろうか。

(そのあとに「花は何の花 つんつん椿 水は天からもらい水」とつづく。 )



川の難所を渡る漢字が残されている。

川の難所に当たって、その河神に祈る形が、

順

であり、献歌を表す漢字が「訓」である。

どちらの字にも「川」の部分があるのはそのためである。

「順」とは、川のほとりにひざまずく人の形。「順当に渡らせ給え」と祈りを捧げる姿である。

ところで、その、川のほとりにひざまずく人物の頭の部分に注目してほしい。

奇妙な1本の曲線がついているでしょう。

…これは、「おくのほそ道」では、その月山登山のところに「宝冠(ほうかん)に頭を包(つつみ)」とある、その宝冠に相当する。

それは神の前に立つ場合の礼装である。

  卯の花をかざしに関の晴着かな

芭蕉さんは、頭に卯の花のかんざし。

「順」の字の場合は、頭部に宝冠のしるし。

この符合…。

卯の花のかんざしは、礼装であり、句は献歌である。

それは、古代から伝えられた関の通過の作法だったのである。





【著者プロフィール】 伊東信夫(いとう・しのぶ)

1926年、山形県生まれ。白川漢字学の系譜に連なる漢字研究家。
1947年、山形の冬季分校の教師となって以来、長く教職に携わる。
現在は、漢字学の研究と共に、子どもや教師たちに漢字のおもしろさを伝えるため、各地で講演するなど、活躍中。主な共著書に「漢字カルタ」「漢字はみんな、カルタで学べる」「漢字がたのしくなる本」シリーズ(いずれも太郎次郎社)、「成り立ちで知る 漢字のおもしろ世界」シリーズ(スリーエーネットワーク)がある。
現在、立命館大学 白川静記念東洋文字文化研究所客員研究員。

漢字でよむ おくのほそ道 第9回
佐藤庄司が旧跡

漢字でよむ 奥のほそ道
2007年6月27日



佐藤庄司が旧跡


■ 原文 ■


月の輪のわたしを越て、瀬の上と云宿に出づ。佐藤庄司が旧跡は、左の山際一里半計に有。飯塚の里鯖野と聞て、尋たづね行に、丸山と云に尋あたる。是庄司が旧館也。麓に大手の跡など、人の教ゆるにまかせて泪を落し、又かたはらの古寺に一家の石碑を残す。中にも二人の嫁がしるし、先哀也。女なれどもかひがひしき名の世に聞えつる物かなと袂をぬらしぬ。堕涙の石碑も遠きにあらず。寺に入て茶を乞へば、爰に義経の太刀・弁慶が笈をとゞめて什物とす。
  笈も太刀も五月にかざれ帋幟
五月朔日の事也。


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原文出典:『芭蕉 おくのほそ道』岩波書店



■ 訳 ■


月の輪の渡しで阿武隈川を越え、瀬の上という宿場に出る。

平安朝末期の領主、佐藤庄司の居城の跡は、左の山ぎわを一里半ばかり行ったところにある。そこは飯塚の鯖野という所だというので、人に尋ねながら行くと、丸山という所に、その城跡があった。

「ここが、大手門(表門)の跡であった。」などと案内の人に教えられ、昔の様子を想像する。

そして、旧跡のかたわらの古寺には、佐藤庄司一族の墓石が残っており、中でも、二人の嫁の墓標には、ひときわ哀れを催す。

女性の身でありながら今の世まで語り継がれる雄雄しいエピソード、聞くだけで思わず感涙を催すというもの、それは、遠く中国にあるという「堕涙の石碑」を引き合いにだすまでもない。だれもが感動せずにはおれない旧跡は、この日本のこの地にもあるではないか−。

寺の僧坊で茶を乞い話しを聞けば、寺には義経の太刀(たち)と弁慶の笈(おい)が、寺宝として残されているという。

  笈も太刀も五月にかざれ帋幟(かみのぼり)

時あたかも端午の節句まぢか、鍾馗様(しょうきさま)の幟ばかりでなく、この太刀と笈も、共に飾ったらいかがなものでしょうか。




■ 注釈 ■


佐藤庄司一族のエピソード

源義経の平家追討の戦に従軍し、義経の身代わりとなって戦死する、佐藤継信・忠信兄弟の父が佐藤庄司で、福島の信夫郡(しのぶぐん)の領主、「二人の嫁」とは、その、継信・忠信の妻たち。

生きて故郷に凱旋することのなかった兄弟の母の悲しみを慰めようと、二人の嫁は、女ながらも、鎧兜(よろいかぶと)に身を固め、参戦の武士の装いをしてみせたという。

…その故事によって、寺には二人の嫁の甲冑を着た木像があり、寺の名も甲冑堂(かっちゅうどう)というのだそうである。



堕涙の石碑

その碑に参る者は、そこに込められた伝説に、おもわず感涙を催すという、中国の石碑。




【著者プロフィール】 伊東信夫(いとう・しのぶ)

1926年、山形県生まれ。白川漢字学の系譜に連なる漢字研究家。
1947年、山形の冬季分校の教師となって以来、長く教職に携わる。
現在は、漢字学の研究と共に、子どもや教師たちに漢字のおもしろさを伝えるため、各地で講演するなど、活躍中。主な共著書に「漢字カルタ」「漢字はみんな、カルタで学べる」「漢字がたのしくなる本」シリーズ(いずれも太郎次郎社)、「成り立ちで知る 漢字のおもしろ世界」シリーズ(スリーエーネットワーク)がある。
現在、立命館大学 白川静記念東洋文字文化研究所客員研究員。

漢字でよむ おくのほそ道 第10回
宮城野

漢字でよむ 奥のほそ道
2007年7月4日



宮城野


■ 原文 ■


名取川を渡て仙台に入。あやめふく日也。旅宿をもとめて、四、五日逗留す。爰に画工加右衛門と云ものあり。聊心ある者と聞て、知る人になる。この者、年比さだかならぬ名どころを考置侍ればとて、一日案内す。宮城野の萩茂りあひて、秋の気色思ひやらるゝ。玉田・よこ野、つゝじが岡はあせび咲ころ也。日影ももらぬ松の林に入て、爰を木の下と云とぞ。昔もかく露ふかければこそ、「みさぶらひみかさ」とはよみたれ。薬師堂・天神の御社など拝て、其日はくれぬ。猶、松島・塩がまの所々画に書て送る。且、紺の染緒つけたる草鞋二足餞す。さればこそ、風流のしれもの、爰に至りて其実を顕す。
  あやめ草足に結ん草鞋の緒


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原文出典:『芭蕉 おくのほそ道』岩波書店




■ 訳 ■


名取川を渡って仙台に入る。5月4日、屋根に菖蒲(しょうぶ)を葺く日であった。・・・仙台では旅館に宿泊、4、5日逗留することにした。

この地に、画工の加右衛門というものあり、ひとかどの教養人であるときき、知り合いの仲となる。この者、「日ごろから、歌に詠まれても、在所の知れない名所を調べおきましたので−。」と一日、それらを案内してくれた。

宮城野は萩が多く、秋の花咲く景色はいかほどかと想像される。…玉田・よこ野を経て、つつじが岡は、馬酔木(アセビ)の花盛り。

昼なお暗い松林に入ったが、そこがまた「木の下」という名所。昔もこのように露深い所であったのだろう。

  みさぶらひみかさと申せみやぎのゝ木の下露は雨にまされり

という歌の残っているところである。…。「お侍さま、笠を用意して行きなされよ…」というのであるという。

それから、薬師堂や天神社を参拝して一日がくれた。

別れるにあたって加右衛門より、自作の松島・塩竈などの絵地図が贈られた。

更に、藍染の布を緒に巻いた草鞋(わらじ)2足が餞(はなむけ)された。
藍は、毒蛇の蝮(まむし)の嫌うもの。その草鞋は、旅の安全を祈るものである。……この、心づかい−。

加右衛門という人物の、なみなみならぬ人品(じんぴん)、その本性が表現されているではないか。

  あやめ草足に結ん草鞋の緒

われわれも、この餞にこめられた誠意を胸に、また長途の旅をつづけるとしよう。邪悪を祓い、かつ薬草であるあやめ草を足にむすぶ思いで−。




■ 注釈 ■


旅人に贈る心

古来、東洋においては、旅に行く人に対する思いを歌った歌が多い。

中国においても、日本においても−。

その中でも、特に有名なのは、万葉集の東歌(あずまうた)の、次の一首であろう。

信濃路は今の墾道刈株に足踏ましむな履著けわが夫 (万葉集 巻14・3399)
(しなぬじは いまのはりみち かりばねに あしふましむな くつはけわがせ)

信濃路(中仙道)は、まだ切り開いたばかりの道。そこは柴や萱の切り株も多い。足を踏みとおしたら大変。必ず、藁靴をお履きなされ、という新妻の夫に対する思いやりである。



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【著者プロフィール】 伊東信夫(いとう・しのぶ)

1926年、山形県生まれ。白川漢字学の系譜に連なる漢字研究家。
1947年、山形の冬季分校の教師となって以来、長く教職に携わる。
現在は、漢字学の研究と共に、子どもや教師たちに漢字のおもしろさを伝えるため、各地で講演するなど、活躍中。主な共著書に「漢字カルタ」「漢字はみんな、カルタで学べる」「漢字がたのしくなる本」シリーズ(いずれも太郎次郎社)、「成り立ちで知る 漢字のおもしろ世界」シリーズ(スリーエーネットワーク)がある。
現在、立命館大学 白川静記念東洋文字文化研究所客員研究員。

漢字でよむ おくのほそ道 第11回
松島

漢字でよむ 奥のほそ道
2007年7月6日



松 島


■ 原文 ■


抑ことふりにたれど、松島は扶桑第一の好風にして、凡洞庭・西湖を恥ず。東南より海を入て、江の中三里、浙江の潮をたゝふ。島々の数を尽して、欹ものは天を指、ふすものは波に匍匐。あるは二重にかさなり、三重に畳みて、左にわかれ右につらなる。負るあり抱るあり、児孫愛すがごとし。松の緑こまやかに、枝葉汐風に吹たはめて、屈曲をのづからためたるがごとし。其気色窅然として、美人の顔を粧ふ。ちはや振神のむかし、大山ずみのなせるわざにや。造化の天工、いづれの人か筆をふるひ詞を尽さむ。


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原文出典:『芭蕉 おくのほそ道』岩波書店



■ 訳 ■


いまさら言うまでもないことであるが、松島は、わが国第一の景勝の地であって、それは、中国の洞庭湖や西湖にくらべて勝るとも劣るものではない。

その松島は、東南方向より海の入りこんだ港であり、その規模およそ三里四方、中国の杭州湾に似て干満のはげしいところである。

その上、大小さまざまの島のすべてが、ひとつの湾内に集っており、とんがったものは天を指さし、ひらべったいものは、波に腹這いする姿。

あるいは二重にかさなり、三重にたたみあげ、左方に別れていくと見えたかと思えば、右方は島々のつらなり、おんぶしているものやだっこしている状態の島々、あたかも、じじばばが孫子をかわいがっている姿である。

そして、この松島は、その名の示すとおり、島々は松の緑一色。木々の枝ぶりもみごとで、天然の景、その極致を見るようであり、その景色たるや、窅然として奥深く、その美しさは、比類ない美女の容貌。

これぞ神代のむかし、この国の山河造成にたずさわったという大山祗神(おおやまずみのかみ)のなせる業(わざ)であろう。それは、何人(なんびと)も絵に描き、文章に表現しつくすことができるであろうか。




■ 注釈 ■


名文を味わう

松島の章の、この一節は、古今の日本語文の中でも、名文中の名文ということができる。

できれば、原文のまま、暗誦したいところである。

二、三の語句について解説を付けておこう。


●扶桑(ふそう)

東海の日の出る所にあるという神木、またその土地という意味から、昔、中国で日本をこう言った。

つまり、扶桑とは、日本の別名である。


●匍匐(はらばう)

音読みでは「ホフク」と読み、「匍匐前進」とは、腹這いになって敵に迫ることである。

「甫畐(ホフク)」は、字の音を示し、「勹(ホウ)」は、人の側面形。

ここでは、人が体をまげて腹這う形をあらわしている。


●窅然(ようぜん)

奥深く深遠なさま、と訳されるが、「窅」とは、被り物の下から目を出す様子であり、「冒(ボウ)」や「曼(マン)」と似た字。

12よう


「曼」とは、女性が被り物を、手でたくしあげて顔をあらわし、“わたし、きれいでしょう”というそぶりをすることをあらわす。

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●造化の天工

白川文字学によると、日本語の「つくる」に相当する漢字には「作・為・造」があり、「作」は枝を手で折り曲げる形で、人間の手作りをあらわし、「為」は、人が象を操る形。人力を超えた力で大きな工事などをおこなうこと。

そして、「造」とは、神のお告げをあらわし、従って、「造化の天工」と使うことは、もともとの字の意味にかなう使い方である。





【著者プロフィール】 伊東信夫(いとう・しのぶ)

1926年、山形県生まれ。白川漢字学の系譜に連なる漢字研究家。
1947年、山形の冬季分校の教師となって以来、長く教職に携わる。
現在は、漢字学の研究と共に、子どもや教師たちに漢字のおもしろさを伝えるため、各地で講演するなど、活躍中。主な共著書に「漢字カルタ」「漢字はみんな、カルタで学べる」「漢字がたのしくなる本」シリーズ(いずれも太郎次郎社)、「成り立ちで知る 漢字のおもしろ世界」シリーズ(スリーエーネットワーク)がある。
現在、立命館大学 白川静記念東洋文字文化研究所客員研究員。

漢字でよむ おくのほそ道 第12回
平泉

漢字でよむ 奥のほそ道
2007年7月11日



平 泉


■ 原文 ■


三代の栄耀一睡の中にして、大門の跡は一里こなたに有。秀衡が跡は田野に成て、金鶏山のみ形を残す。先高館にのぼれば、北上川南部より流るゝ大河也。衣川は和泉が城をめぐりて、高館の下にて大河に落入。泰衡等が旧跡は、衣が関を隔て、南部口をさし堅め、夷をふせぐとみえたり。偖も義臣すぐつて此城にこもり、功名一時の叢となる。「国破れて山河あり、城春にして草青みたり」と、笠打敷て、時のうつるまで泪を落し侍りぬ。
  夏草や兵どもが夢の跡
  卯の花に兼房みゆる白毛かな   曾良

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原文出典:『芭蕉 おくのほそ道』岩波書店




■ 訳 ■


奥州藤原三代(清衡・基衡・秀衡)の繁栄も、歴史の上から見れば、ほんのひと眠りの間、現にその館跡のすがたは、といえば、南大門の道は、館跡の一里手前にあり、秀衡の居館「伽羅御所」の跡も今は、田畑となって、平泉鎮護のために造られた金鶏山だけがその形を残しているという状態である。

それで、まずは、義経の居館のあった高館に登ると、眼下は、南部地方から流れてくる北上の大河。

弁慶最期の地であった衣川は、和泉が城をめぐって高館の下で北上川に合流する。

三代目の当主秀衡の次男である泰衡たちの旧館跡は、衣が関をへだてて、南部口を堅め、北方からの蝦夷(えぞ)の侵入を防ぐものだっただろう。

それにしても、高館は、武蔵坊弁慶をはじめとする忠臣たちが、最後まで主君源義経を守って立てこもった所である。

その、名将義経の最期の場所であるこの館跡も、今は、ただの叢(くさむら)なのである。

  国破れて山河あり 城春にして草青みたり

という、有名な杜甫(とほ)の「春望」に詠われている現実が、今ここにある思い。

しばらくは、滂沱(ぼうだ)と涙を流して、草の上にただ座るだけである。

  夏草や兵どもが夢の跡

そして、ここも、卯の花の盛り。この花の白さも、最後まで義経を守って奮戦した、老臣の兼房の白髪頭が想像されるようである。

  卯の花に兼房みゆる白毛かな   曾良




■ 注釈 ■


義経の最期

源九郎判官義経(みなもとのくろうはんがんよしつね)。

鎌倉幕府を興した兄源頼朝をたすけて平家を滅亡させるのだが、その後、頼朝の怒りをかうこととなり、武蔵坊弁慶をはじめとする、ごく僅かの忠臣とともに諸国を流浪。

最後に奥州の藤原秀衡のもとに身を寄せる。少年時、鞍馬寺から出て、成人するまで育ったところである。

しかし、秀衡の死後、その子泰衡に急襲されて、衣川の高館にて自殺。

薄命の英雄として伝説化されていて、そして日本人はみな、この義経贔屓であるとされる。

いわゆる「判官贔屓(ほうがんびいき)」であり、不遇な者や弱者に対する同情がつよいのである。

実際、義経の落ちのびた跡には、多くの伝説が今に到るまで残っている。

これ程伝説の多い人物は、義経をおいて他にはいない。

考えてみると、「おくのほそ道」の行程のうち約半分、つまり、平泉以降の道は、義経の通った道を逆に辿ったことになるわけである。

芭蕉さんの旅も、その途々、多くの義経伝説と出逢わないはずはなかった。

しかしそれも今は、「兵どもが夢の跡」だったのである。





【著者プロフィール】 伊東信夫(いとう・しのぶ)

1926年、山形県生まれ。白川漢字学の系譜に連なる漢字研究家。
1947年、山形の冬季分校の教師となって以来、長く教職に携わる。
現在は、漢字学の研究と共に、子どもや教師たちに漢字のおもしろさを伝えるため、各地で講演するなど、活躍中。主な共著書に「漢字カルタ」「漢字はみんな、カルタで学べる」「漢字がたのしくなる本」シリーズ(いずれも太郎次郎社)、「成り立ちで知る 漢字のおもしろ世界」シリーズ(スリーエーネットワーク)がある。
現在、立命館大学 白川静記念東洋文字文化研究所客員研究員。

漢字でよむ おくのほそ道 第13回
尿前の関

漢字でよむ 奥のほそ道
2007年7月18日



尿前の関


■ 原文 ■


南部道遙にみやりて、岩手の里に泊る。小黒崎・みづの小島を過て、なるごの湯より尿前の関にかゝりて、出羽の国に越んとす。此路旅人稀なる所なれば、関守にあやしめられて、漸として関をこす。大山をのぼつて日既暮ければ、封人の家を見かけて舎を求む。三日風雨あれて、よしなき山中に逗留す。
  蚤虱馬の尿する枕もと


原文出典:『芭蕉 おくのほそ道』岩波書店



■ 訳 ■


平泉からは、南部方面へは向かわず、南下して、宮城県の岩出山に宿泊。更に、小黒崎・みづの小島を過ぎ、鳴子温泉を経由して、尿前の関から出羽の国に越えることにする。

この、尿前越えといわれる路は、旅する者が少なく、また、関守たちも警戒心が強く、はらはらしどおしで関を越える。

この尿前越えまたは、中山越えといわれる峠を越えた時は、すでに日没。

国境を守る役人の家、いわゆる封人(ほうじん)の家を見かけて、宿泊させてもらうことにする。

…3日間、暴風雨のため、やむなくこの山中に逗留することになったのであるが、そこは、一晩中蚤や虱にせめられ、その上、枕もとでは馬の尿する音。

なんともわびしい旅寝であった。

  蚤虱馬の尿する枕もと




■ 注釈 ■


封人の家

宮城県小牛田(こごた)から山形県新庄市に通ずる鉄道、陸羽東線。

その、山形県側最初の堺田(さかいだ)駅の近くに、「封人の家」がある。

建物は茅葺屋根の平屋で、普通の農家。

芭蕉さんの実際に宿泊したその建物が現存している。

居室と土間を隔てて、屋内に2頭分の馬屋があった。



深山を越え行く描写

…旅は、尿前の関のある堺田からは山刀伐峠(なたぎりとうげ)を越え尾花沢に到る。

その、深山をゆく描写は、「おくのほそ道」のなかでも屈指の名文である。

それは、

…あるじの云にたがはず、高山森々として一鳥声きかず、木の下闇茂りあひて、夜る行がごとし。雲端(くもは)につちふる*心地して、篠の中踏分踏分、水をわたり岩に蹶て、肌につめたき汗を流して、最上の庄に出づ。…

となっていて、これぞ、日本の文語調の名文。

昼なお暗い深山を、一行が息をつめて通りすぎるその様子が目に見えるようである。

* 「雲端につちふる」

竜巻のような天候であろう。突風に、巻き上げられた砂塵が、雨とともに降ってくる、そのような天候をいう。





【著者プロフィール】 伊東信夫(いとう・しのぶ)

1926年、山形県生まれ。白川漢字学の系譜に連なる漢字研究家。
1947年、山形の冬季分校の教師となって以来、長く教職に携わる。
現在は、漢字学の研究と共に、子どもや教師たちに漢字のおもしろさを伝えるため、各地で講演するなど、活躍中。主な共著書に「漢字カルタ」「漢字はみんな、カルタで学べる」「漢字がたのしくなる本」シリーズ(いずれも太郎次郎社)、「成り立ちで知る 漢字のおもしろ世界」シリーズ(スリーエーネットワーク)がある。
現在、立命館大学 白川静記念東洋文字文化研究所客員研究員。

漢字でよむ おくのほそ道 第14回
尾花沢

漢字でよむ 奥のほそ道
2007年7月25日



尾花沢


■ 原文 ■


尾花沢にて清風と云者を尋ぬ。かれは富るものなれども志いやしからず。都にも折々かよひて、さすがに旅の情をも知たれば、日比とゞめて、長途のいたはり、さまざまにもてなし侍る。
  涼しさを我宿にしてねまる也
  這出よかひやが下のひきの声
  まゆはきを俤にして紅粉の花
  蚕飼する人は古代のすがた哉   曾良


原文出典:『芭蕉 おくのほそ道』岩波書店



■ 訳 ■


尾花沢にて、鈴木清風という者を尋ねる。

彼は、富裕の身でありながら、人品高潔のものである。職業柄、度々上京することがあり、従って旅の風流にも理解あるものなので、しばらくとどまって、お世話になることになる。

…清風方(がた)も、長旅の労をねぎらいなぐさめ、いろいろともてなしてくれる。久しぶりに「わが家」に落ち着くおもいである。

  涼しさを我宿にしてねまる(※後注)

…かいや(蚕室)の下で、ククと鳴くひきがえる(蟇)よ、出てきて私とも語ろうではないか。

  這出よかひやが下のひきの声

そして、清風の業(なりわい)としている紅花。そのはなぶさは、あたかも女性が身を装う道具である、眉掃(まゆはき)と、そっくりではないか。

  まゆはきを俤にして紅粉の花

また、夏の養蚕のしごと、それは高温多湿の中でおこなわれることなので、男女とも、上半身裸のままである。

  蚕飼(こがひ)する人は古代のすがた哉   曾良




■ 注釈 ■


芭蕉の寄り道…旅の途中の「わが家」

…かれは富るものなれど志いやしからず

「ほそ道」の旅の記述は、人との出逢いの記録でもあるわけだが、この「富るものなれど志いやしからず」という鈴木清風に対する人物評ほど凛としたものは他にない。

これは、私的な感情であるけれど、わたしは、このことばのあることを知って、作品「おくのほそ道」から、目が離せなくなった。

なんとすごい人物評なのであろう。

地図で見てもあきらかなように、平泉から象潟(きさがた)に向かう道程からは、尾花沢や山寺は、寄り道になっている。

なのに、山刀伐峠を越えて尾花沢へ向かう。それは、この鈴木清風の居住の地への寄り道なのである。

だから、旅の途中にあるべくもない「我宿(わがやど)」に「ねまる」のである。

「ねまる」とは、土地の方言であり、語源は「根回る」ではないかと思う。

樹木が大地に根を張る如く安座するのである。

人がその地の神のなかに安住する状態をいうのではないかと思う。

そして、句の題材となる「蚕飼い(こがい)」も「紅花(べにばな)」も、清風のなりわいを支えるものである。





【著者プロフィール】 伊東信夫(いとう・しのぶ)

1926年、山形県生まれ。白川漢字学の系譜に連なる漢字研究家。
1947年、山形の冬季分校の教師となって以来、長く教職に携わる。
現在は、漢字学の研究と共に、子どもや教師たちに漢字のおもしろさを伝えるため、各地で講演するなど、活躍中。主な共著書に「漢字カルタ」「漢字はみんな、カルタで学べる」「漢字がたのしくなる本」シリーズ(いずれも太郎次郎社)、「成り立ちで知る 漢字のおもしろ世界」シリーズ(スリーエーネットワーク)がある。
現在、立命館大学 白川静記念東洋文字文化研究所客員研究員。

漢字でよむ おくのほそ道 第15回
立石寺

漢字でよむ 奥のほそ道
2007年8月2日



立石寺


■ 原文 ■


山形領に立石寺と云山寺あり。慈覚大師の開基にして、殊清閑の地也。一見すべきよし、人々のすゝむるに依て、尾花沢よりとつて返し、其間七里ばかり也。日いまだ暮ず。麓の坊に宿かり置て、山上の堂にのぼる。岩に巌を重て山とし、松栢年旧、土石老て苔滑に、岩上の院々扉を閉て、物の音きこえず。岸をめぐり、岩を這て、仏閣を拝し、佳景寂寞として心すみ行のみおぼゆ。
  閑さや岩にしみ入蝉の声


原文出典:『芭蕉 おくのほそ道』岩波書店



■ 訳 ■


山形領に、宝珠山立石寺(りっしゃくじ)という寺がある。平安初期の高僧、慈覚大師の開いたという清閑の地である。

「ぜひ、ごらんになったほうがいいですよ。」と、人にすすめられて、寄り道することになる。尾花沢からは、七里(約28km)ばかり南下したところにある。

到着は、未だ日暮れ前、麓の宿坊に宿を借りておいて、山上の堂院を見ることにする。

立石寺は、俗に「山寺(やまでら)」ともいわれ、全山が巌(いわお)を重ねたような山でできている。その景色は、老松老杉に包まれ、土石は苔むし、岩上に立つ院々は扉をとざし、森閑として音なく、

断崖を廻り、岩を這い仏閣を参拝する。その絶景なるや寂寞として心のあらわれる思いである。

さらに、あたりは夏蝉の声に満ち、それがひときわ、この山寺の静寂をきわだたせる。

  閑さや岩にしみ入蝉の声




■ 注釈 ■


「佳景寂寞」について

この、山寺の風景描写は、また、古今の名文といってよいものであろう。

そして、このような名文は音読して味わうべきものであるが、それにしても、このような名文のうまれるのは、日本語が漢字を音訓両用、自在に使いこなすものだからである。

それだけではない。

同じ音読みといっても、中国音は、時代と地方の違いによって、呉音・漢音、その他と、多様であった。

それをまるごと、日本語はのみこんで使っているのである。

「佳景寂寞(かけいじゃくまく)」が、そのもっともよい例であると思う。

…「寂寞」は、普通なら「セキバク」読む。しかし、「ジャクマク」とも読めるのである。

…仮に「カケイセキバク」という読みと、「カケイジャクマク」という読みを、声を出してよく吟味してほしい。

やはり「…ジャクマク」と読むべきところであることが納得できるであろう。

なお、「寂・寞」の漢字の意味である。

「叔(シュク)」は、邪悪を祓う呪鎮に用いる鉞(まさかり)を手に持つ形で、

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「寂」は、廟(みたまや)に、そのまさかりの刃が白く光る状態をあらわし、

「莫」は、西の草原に日の沈む様子。

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そのことから、「寂寞」とは、ひっそりと静まりかえった状態を表すのである。





【著者プロフィール】 伊東信夫(いとう・しのぶ)

1926年、山形県生まれ。白川漢字学の系譜に連なる漢字研究家。
1947年、山形の冬季分校の教師となって以来、長く教職に携わる。
現在は、漢字学の研究と共に、子どもや教師たちに漢字のおもしろさを伝えるため、各地で講演するなど、活躍中。主な共著書に「漢字カルタ」「漢字はみんな、カルタで学べる」「漢字がたのしくなる本」シリーズ(いずれも太郎次郎社)、「成り立ちで知る 漢字のおもしろ世界」シリーズ(スリーエーネットワーク)がある。
現在、立命館大学 白川静記念東洋文字文化研究所客員研究員。

漢字でよむ おくのほそ道 第16回
最上川

漢字でよむ 奥のほそ道
2007年8月8日



最上川


■ 原文 ■


最上川は、みちのくより出て、山形を水上とす。ごてん・はやぶさなど云おそろしき難所有。板敷山の北を流て、果は酒田の海に入。左右山覆ひ、茂みの中に船を下す。是に稲つみたるをや、いな船といふならし。白糸の滝は青葉の隙々に落て、仙人堂、岸に臨て立。水みなぎつて舟あやうし。
  五月雨をあつめて早し最上川


原文出典:『芭蕉 おくのほそ道』岩波書店



■ 訳 ■


最上川は、福島県境から流れ出て、山形を水源とする。(※筆者注 この記述は正確でない。)ここに到るまでは、途中に碁点(ごてん)、隼(はやぶさ)などという、船頭なかせの恐ろしい難所もある。

…ここ最上峡(もがみきょう)は、出羽丘陵(でわきゅうりょう)を横切るところ。板敷山の北を流れ下って、果ては酒田で日本海に注ぐ。

最上峡は、左右から山肌の迫った緑の茂みの中を舟が下る。この舟は、昔、年貢(ねんぐ)として納める稲束を運ぶものでもあって、それで「稲舟(いなふね)」という呼び方もある。

  もがみ川のぼればくだるいな舟のいなにはあらず此月ばかり

という、古今集の歌もある。

舟の右方には、白糸の滝が青葉の合間を見え隠れに落下して、その下には、仙人堂が河岸に臨んで建っている。…時は五月雨の季節。水流豊かに速く、危ういばかりに舟は流れ下る。

  五月雨をあつめて早し最上川




■ 注釈 ■


最上川

最上川の章は、日本の急流との出逢いを描いた章である。

日本の川は、この狭い国土を流れ下るのであるから、清流ではあるが急流が多い。

中でも最上川は、中部の富士川、九州の球磨川(くまがわ)と並んで、日本の三大急流といわれ、急流として名高い川である。

「おくのほそ道」は、いろいろな人との出逢いの記録でもあるが、様々な地勢・風景との出逢いの記録でもある。

松島、象潟の絶景は言うにおよばず、日光・黒髪山にはその山容に我が身を映し、那須野が原では、迷路のごとく道の走る日本の採草地と出逢う。

そして、最上川では、日本の急流と出逢うのである。

それぞれの地勢・風景との出逢いは、言うまでもなく、その地の地霊(ちりょう)、地の神々との出逢いをはたすことでもあるのである。

そして、「おくのほそ道」の文章は、いろいろなものとの出逢いを、バランスよく配置している名文ということもできるのではないかと思う。



川の漢字

ところで、「川(かわ)」の文字である。

中国の大河は、ご存知のように、「黄河」といい、「長江」というように、「河」や「江」が、その名をあらわす文字として使われているが、日本の場合は、すべて「川(かわ)」が使われる。

「川」という漢字を言うとき、わざわざ「さんぼんがわ」と言うことがある。それは、日本語では「河(カ)」あるいは「江(コウ)」も「かわ」と訓よみするからである。

「川(セン)」の最も古い形は

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と書く。

これは川とは何であるか、ということを説明する形でもある。

即ち、@川とは地形に従って蛇行するものであり、A川には、両岸があって、B中を水が流れるものである…といっている。

では、「河」あるいは「江」はなにをあらわしているか。

もともとは、「河」とは、黄河をあらわす固有名詞であり、「江」とは長江あるいは揚子江といわれる大河の名まえの文字であった。

中国の河川の名は、もともとは一字でもってあらわしていた。

「河」とは黄河、「江」とは長江、そして「漢」とは、武漢附近において長江に合流する漢水の固有名詞であった。

「渭(イ)、涇(ケイ)、洛(ラク)」は、みな川の名まえの文字であり、この三川はみな、西安近くで黄河に合流する。

そして「淮(ワイ)」は、黄河と長江の中間の華中平原を、西から東に流れて黄海に入る川の名まえである。

漢字という文字をあらわす「漢」は、もともと川の名をあらわす字なので、「氵(さんずいへん)」の字なのである。





【著者プロフィール】 伊東信夫(いとう・しのぶ)

1926年、山形県生まれ。白川漢字学の系譜に連なる漢字研究家。
1947年、山形の冬季分校の教師となって以来、長く教職に携わる。
現在は、漢字学の研究と共に、子どもや教師たちに漢字のおもしろさを伝えるため、各地で講演するなど、活躍中。主な共著書に「漢字カルタ」「漢字はみんな、カルタで学べる」「漢字がたのしくなる本」シリーズ(いずれも太郎次郎社)、「成り立ちで知る 漢字のおもしろ世界」シリーズ(スリーエーネットワーク)がある。
現在、立命館大学 白川静記念東洋文字文化研究所客員研究員。

漢字でよむ おくのほそ道 第17回
象潟

漢字でよむ 奥のほそ道
2007年8月15日



象 潟


■ 原文 ■


其朝天能霽て、朝日花やかにさし出る程に、象潟に舟をうかぶ。先能因島に舟をよせて、三年幽居の跡をとぶらひ、むかふの岸に舟をあがれば、「花の上こぐ」とよまれし桜の老木、西行法師の記念をのこす。江上に御陵あり。神功后宮の御墓と云。寺を干満珠寺と云。此処に行幸ありし事いまだ聞ず。いかなる事にや。此寺の方丈に座して簾を捲ば、風景一眼の中に尽て、南に鳥海、天をさゝえ、其陰うつりて江にあり。西はむやむやの関、路をかぎり、東に堤を築て、秋田にかよふ道遙に、海北にかまえて、浪打入る所を汐こしと云。江の縦横一里ばかり、俤松島にかよひて、又異なり。松島は笑ふが如く、象潟はうらむがごとし。寂しさに悲しみをくはえて、地勢魂をなやますに似たり。
  象潟や雨に西施がねぶの花


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原文出典:『芭蕉 おくのほそ道』岩波書店



■ 訳 ■


(昨日の悪天候はどこへやら)今朝は見事な晴天。朝日華やかに輝く空のもと、象潟の海に舟を浮かべる。まず、数ある島々の中でも、能因法師ゆかりの島に舟をよせて、法師が3年間幽居したという跡を訪れ、その対岸で上陸。

寺は、干満珠寺といい、そこには、

  きさがたの桜は波にうづもれて花の上こぐあまのつリ舟

と詠まれた桜の老樹が、今も西行法師の記念として残っている。

湾上に神功皇后の墓といわれる御陵(ごりょう)がある。しかし、皇后がここに行幸されたということは、聞いたことがない。どうしたことであろうか。

寺の僧坊に上がり、そこの簾(すだれ)をあげると、そこからは、象潟の風景を一望することができる。

即ち、南は出羽の名山鳥海がそびえ、その影は湾に映り、西は有耶無耶(うやむや)の関で羽前の国に接し、東は秋田に通ずる道路が堤防の上につづいている。そして、北方は日本海であって、波の寄せる所を汐越(しおごし)という。

象潟は、縦横それぞれ一里(約4km)ほどの入り海。その形、大きな象に似ているといわれるが、表情が松島に通ずるところもあるがしかし、異なる。

言うなれば、松島は笑うようであるのに対し、象潟は怨むようである。さびしさに悲しみをくわえたそのありさまは、悩める美女を思わせる風情である。

  象潟や雨に西施がねぶの花




■ 注釈 ■


象潟

松島と並び称される東北の景勝地。

松島湾岸に瑞巌寺があるように、象潟の寺を、干満寺あるいは干満珠寺という。

また、松島は表日本の宮城県にあるが、象潟は、裏日本、秋田県の南西部にあり、東北の名山鳥海山の北西麓に位置する。

湾は東西約2.2Km、南北約3.3kmの規模の広さで、九十九島・八十八潟の内湾であったが、1804年(文化1年)の地震で地盤が隆起して海水は退き、今は田園地帯となって、田んぼに水の張る時だけ、昔の九十九島の俤がしのばれる。

しかし、「おくのほそ道」の旅は1689年のことであり、当時象潟は未だ、海であった。




悲劇の美女 西施

中国は春秋の時代、揚子江下流地域では、呉越(ごえつ)がその勢力を争っておった、その政争の道具につかわれた絶世の美女の名。

越王勾践(こうせん)は、呉に敗れて後、智将范蠡(はんれい)の策によって、西施を呉王夫差(ふさ)の許に贈る。

夫差は、西施の色香に溺れて政治を顧みなくなり、やがて国を傾ける結果となる。

時に象潟は雨にけぶる季節。その中にひっそりと咲く合歓(ねむ)の花は、悩める美女西施の姿に通うものがあったのであろう。




西施の顰に倣う

また、“西施の顰(ひそみ)に倣(なら)う”という有名なことわざがある。

「広辞苑」では、次のように説明している。

西施がかつて心を痛めて顔をしかめたのを、里の醜女が見て、これを美とし、争って顔をしかめた。いたずらに人の物真似をして、世の物笑いになることをいう。

「顰」という字は、今は、「顰蹙(ひんしゅく)」ということばで使われる。

「顰」は、川の難所を歩いて渡る場合をあらわす字である。それで、「頻(ヒン)」が字の部分となっている。

「顰」とは、渡河に際して、その河神に祈りを捧げ、そして、心をひきしめて川を渡る。その、緊張した顔の表情が「顰」である。





【著者プロフィール】 伊東信夫(いとう・しのぶ)

1926年、山形県生まれ。白川漢字学の系譜に連なる漢字研究家。
1947年、山形の冬季分校の教師となって以来、長く教職に携わる。
現在は、漢字学の研究と共に、子どもや教師たちに漢字のおもしろさを伝えるため、各地で講演するなど、活躍中。主な共著書に「漢字カルタ」「漢字はみんな、カルタで学べる」「漢字がたのしくなる本」シリーズ(いずれも太郎次郎社)、「成り立ちで知る 漢字のおもしろ世界」シリーズ(スリーエーネットワーク)がある。
現在、立命館大学 白川静記念東洋文字文化研究所客員研究員。

漢字でよむ おくのほそ道 第18回
越後路

漢字でよむ 奥のほそ道
2007年8月22日



越後路


■ 原文 ■


酒田の余波日を重て、北陸道の雲に望。遙々のおもひ胸をいたましめて、加賀の府まで百卅里と聞。鼠の関をこゆれば、越後の地に歩行を改て、越中の国一ぶりの関に到る。此間九日、暑湿の労に神をなやまし、病おこりて事をしるさず。
  文月や六日も常の夜には似ず
  荒海や佐渡によこたふ天河


原文出典:『芭蕉 おくのほそ道』岩波書店



■ 訳 ■


酒田・鶴岡とも別れ、いよいよ北陸の地へと向かう。加賀金沢まで百三十里ときく。行く先は遥かである。

鼠ヶ関を越えると、新潟を通過し、越中の国市振の関に到る。その間は暑気に苦しめられた上に、持病さえおこり、9日間の記録など、残そうにも残せるものではなかった。

時に陰暦は7月。あすはもう七夕である。それは年に一度、天の川を渡って、織姫と彦星の出会う日でもある。

  文月や六日も常の夜には似ず
  荒海や佐渡によこたふ天河




■ 注釈 ■


「やまば」の前の空白・・・そして出逢いの予告

「越後路」の9日間の記録は、空白となっている。

それは、暑湿と持病の起こりという健康上の理由によるとされているが、実はこれは、文章構成上の意図的な空白の設定である。

つまりそれは、「やまば」の前の空白。

すぐあとに来る「やまば」を前に、ホッ!と一息いれるようなものである。

しかし、この章は、よく見るとただの空白ではない。

きたる「やまば」での出逢いを予告している。

あすは7月7日、七夕の日である。天空においては、年に一度の出逢いが演じられる日であると、次に来る「やまば」を予告しているのである。

だから、事実、夏は鏡のような日本海であるはずなのに、海は荒海であり、あすを控えたきょうの夜は、常の夜とはちがう、どことなく心おちつかない夜なのである。

七夕の出逢いとは、年に一度の出逢いでありながら、一日にして別れる出逢いなのである。次章「市振の関」では、どのような出逢いと別れが展開することであろうか。





【著者プロフィール】 伊東信夫(いとう・しのぶ)

1926年、山形県生まれ。白川漢字学の系譜に連なる漢字研究家。
1947年、山形の冬季分校の教師となって以来、長く教職に携わる。
現在は、漢字学の研究と共に、子どもや教師たちに漢字のおもしろさを伝えるため、各地で講演するなど、活躍中。主な共著書に「漢字カルタ」「漢字はみんな、カルタで学べる」「漢字がたのしくなる本」シリーズ(いずれも太郎次郎社)、「成り立ちで知る 漢字のおもしろ世界」シリーズ(スリーエーネットワーク)がある。
現在、立命館大学 白川静記念東洋文字文化研究所客員研究員。

漢字でよむ おくのほそ道 第19回
市振の関

漢字でよむ 奥のほそ道
2007年8月29日



市振の関


■ 原文 ■


今日は親しらず・子しらず・犬もどり・駒返しなど云北国一の難所を越て、つかれ侍れば、枕引よせて寐たるに、一間隔て面の方に、若き女の声二人計ときこゆ。年老たるおのこの声も交て物語するをきけば、越後の国新潟と云所の遊女成し。伊勢参宮するとて、此関までおのこの送りて、あすは古郷にかへす文したゝめて、はかなき言伝などしやる也。白浪のよする汀に身をはふらかし、あまのこの世をあさましう下りて、定めなき契、日々の業因、いかにつたなしと、物云をきくきく寐入て、あした旅立に、我々にむかひて、「行衛しらぬ旅路のうさ、あまり覚束なう悲しく侍れば、見えがくれにも御跡をしたひ侍ん。衣の上の御情に大慈のめぐみをたれて結縁せさせ給へ」と、泪を落す。不便の事には侍れども、「我々は所々にてとゞまる方おほし。只人の行にまかせて行べし。神明の加護、かならず恙なかるべし」と、云捨て出つゝ、哀さしばらくやまざりけらし。
  一家に遊女もねたり萩と月
曾良にかたれば、書とゞめ侍る。


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原文出典:『芭蕉 おくのほそ道』岩波書店



■ 訳 ■


今日は、「親知らず・子知らず」、「犬もどり」、「駒返し」などといわれる険路うちつづく北国一の難所を越え来て、さすがに疲れてしまった。

それで、今夜は早々に寝に就こうとしたのであったが、一間(ひとま)隔てた面側(おもてがわ)の部屋の、2人ほどの若い女の話し声が耳について、なかなか寝付けない。

その話し声には、年配の男の声も交っている。そして、その語るところを聞けば、彼女らは、越後の国新潟という所の遊女たちであるという。伊勢参宮を志して旅立ち、男は、この関まで送ってきたのだが、あすは、故郷に引き返すのであるという。それで故郷への手紙とともに、いささかの伝言も託しているようであった。

彼女らの語りである。

「私たちは、なんという運命のもとに生まれついたのであろう。
 
白なみのよする汀(なぎさ)に世をすぐすあまの子なれば宿もさだめず

と、古歌にもあるように、あまの子(遊女)というものになり下がり、日々定めのない契り(ちぎり)のなかに生きなければならない。なんという悲運なことなのだろう…。」

という語りを聞きながら、眠りに入る。

翌朝出発しようとすると彼女らは、われわれに対して、

「大変お願いしにくいことなのですが、これからの旅は、私たちだけでは不安でならないのです。同道をお願いするなど、おこがましいことは、とても申し上げられません。でもせめて、見え隠れにも後を付けさせていただけないものでしょうか。僧形(そうぎょう)をなさるみなさまにおすがりしたいのです。仏のみ情け、み恵みを垂れさせ給うこと、お願い申し上げます。」

と、涙ながらにお願いするのである。

…不憫なことである。…しかし、

「我々とて、ただまっすぐに辿る旅ではないのです。所々方々に立ち寄ることも多いのです。…よろしいですか。…このような場合は、ただただ、人々の流れを信じ、その流れに従って行くことです。そうすれば、必ずや神仏はお守りくださるはずです。」

と、言い聞かせて出発したのではあったが、哀れさのいつまでもあとを引くことではあった。

  一家に遊女もねたり萩と月

おもいを曾良に語れば、旅日記に書きとめてくれておった。




■ 注釈 ■


一間(ひとま)隔てた関係

遊女たちの身の上話し、その嘆きを、芭蕉さんが、直接聞かされたのではない。

一間隔てたところで聞いたのである。

然しそれは、人生における最も深刻な身の上話しとの出逢いなのであった。

「おくのほそ道」の「やまば」…起承転結でいうならば「転」の部分は、「市振の関」の章である。そして、それは、みごとな手法をとって設定されている。

「おくのほそ道」の主題(テーマ)は、「旅」。そして旅とは、出逢いと別れの連続ということであるから、その「やまば」は、出逢いと別れの分岐点、そして、最も壮絶で感動的な場面でなければならない。

だから、彼女らが故郷に託す伝言は、「はかなき言伝」と表現しているのに対し、彼女らの嘆きことばは、実に格調の高い文体でもって綴られているところに注目して読むべきである。

このように深刻な人間の真情と出逢いながら、芭蕉さんは、彼女らとの同道を拒否する。拒否しながらも、その行く先は、神仏の御力に託すということなのである。

これが、この「おくのほそ道」という作品の「やまば」における出逢いと別れ、その様相なのである。



萩と月を一幅の絵と見る


  一家に遊女もねたり萩と月
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この「萩と月」を、ただ、野にある風景と見るのではなく、例えば、一幅の絵のものと見た場合どうなるか。

2つのものは、地上と天上に距たったものでありながら、関係がはっきりしてくる。

即ち、萩は地上に咲きほこり、それを天上から月が照らすということになる。将にこの関係、一幅の絵は、この作品の人間関係を象徴する絵となるのである。

これを、仮に、芭蕉さんが「月」で、遊女が「萩」と言ってしまったらなにか…人間に上下の別をつけてしまいそうで、どうも言い切れない。

でも、隔たって居ながらもその間には、ちゃんとした関係が厳としてあるのだ…ということを芭蕉さんは、象徴的に「萩と月」と表現したのではないかと思う。





【著者プロフィール】 伊東信夫(いとう・しのぶ)

1926年、山形県生まれ。白川漢字学の系譜に連なる漢字研究家。
1947年、山形の冬季分校の教師となって以来、長く教職に携わる。
現在は、漢字学の研究と共に、子どもや教師たちに漢字のおもしろさを伝えるため、各地で講演するなど、活躍中。主な共著書に「漢字カルタ」「漢字はみんな、カルタで学べる」「漢字がたのしくなる本」シリーズ(いずれも太郎次郎社)、「成り立ちで知る 漢字のおもしろ世界」シリーズ(スリーエーネットワーク)がある。
現在、立命館大学 白川静記念東洋文字文化研究所客員研究員。







漢字でよむ おくのほそ道 第20回
金沢

漢字でよむ 奥のほそ道
2007年9月6日



金沢


■ 原文 ■


卯の花山・くりからが谷をこえて、金沢は七月中の五日也。爰に大坂よりかよふ商人何処と云者有。それが旅宿をともにす。一笑と云ものは、此道にすける名のほのぼの聞えて、世に知人も侍しに、去年の冬、早世したりとて、其兄追善を催すに、
  塚も動け我泣声は秋の風


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原文出典:『芭蕉 おくのほそ道』岩波書店



■ 訳 ■


越中、加賀の境、卯の花山・倶利伽羅(くりから)が谷を越えて、金沢に到着したのは陰暦の7月15日。この地に大阪から通っている商人の何処(かしょ)という者がいて同宿となる。

金沢には、一笑という者があって俳諧の道に勝れ、その名は遠く江戸まで知られておった。金沢では、その一笑と会えるのを楽しみに旅をつづけて来たのでもあったが、昨年の冬、惜しくも36歳の若さでこの世を去ったという。…なんということであろう。…

一笑の兄、ノ松(べっしょう)が、彼の冥福を祈って句会を催してくれた。その発句(ほっく)

  塚も動け我泣声は秋の風

この哀しみに感じて塚も動け、私のこの慟哭は、蕭蕭たる秋の風そのものである。




■ 注釈 ■


「やまば」が過ぎれば「別れ」

「おくのほそ道」の作品構成の特徴のひとつは、市振の関の章の「やまば」に到るまでは、出逢い出逢いの連続であるのに対し、以後は別れの連続となることである。

即ち、自らを仏五左衛門と名乗る宿の主人。こころよく馬を貸す那須の農夫。そして、すみずみまで心のゆきとどく仙台の画工加右衛門。これみな、日本人の代表というべき人物と出逢う。

それに対し、市振の関での、心残りする別れの後は、出逢うべきはずの人とは逢えない金沢。やがては、同行(どうぎょう)の曾良とさえ別れ別れの旅がつづくということになる。

「おくのほそ道」は、紀行文でありながら、物語文と同様、その構成には、きちんと「起承転結」が設えられているのである。






【著者プロフィール】 伊東信夫(いとう・しのぶ)

1926年、山形県生まれ。白川漢字学の系譜に連なる漢字研究家。
1947年、山形の冬季分校の教師となって以来、長く教職に携わる。
現在は、漢字学の研究と共に、子どもや教師たちに漢字のおもしろさを伝えるため、各地で講演するなど、活躍中。主な共著書に「漢字カルタ」「漢字はみんな、カルタで学べる」「漢字がたのしくなる本」シリーズ(いずれも太郎次郎社)、「成り立ちで知る 漢字のおもしろ世界」シリーズ(スリーエーネットワーク)がある。
現在、立命館大学 白川静記念東洋文字文化研究所客員研究員。







漢字でよむ おくのほそ道 第21回
山中

漢字でよむ 奥のほそ道
2007年9月13日



山 中


■ 原文 ■


曾良は腹を病て、伊勢の国長島と云所にゆかりあれば、先立て行に、
  行行てたふれ伏とも萩の原  曾良
と書置たり。行ものゝ悲しみ、残るものゝうらみ、隻鳧のわかれて雲にまよふがごとし。予も又、
  今日よりや書付消さん笠の露


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原文出典:『芭蕉 おくのほそ道』岩波書店



■ 訳 ■


同行(どうぎょう)の曾良は、やまいを得て、その休養のため、伊勢の国長島の縁者のところに先行することになった。そのたびたちに際して、

  行行てたふれ伏とも萩の原

と一句を書き残した。当時の旅は、健康な者にとっても命がけの行為なのに、ましてや病を得ての旅である。無事安泰の保証など求められるものでもなかったのである。

その別れのおもい、それは将に、片割れ鳥の雲に迷い飛ぶごときものであろう。

  今日よりや書付消さん笠の露

旅人の笠に記す「同行二人(どうぎょうににん)」は、御仏(みほとけ)とともに歩むという意味であるが、今までの我々は、ほんとうに「同行二人」であった。その四文字も、この悲しみの涙でかき消されてしまうことではないだろうか。




■ 注釈 ■


漢字仮名まじり文の模範

ここにあげた「おくのほそ道」の部分は、漢字仮名まじり文の模範というべき文である。つまりそれは、日本語文の名文である。

病を得て先立ちゆく曾良を、師の芭蕉は、それを見送る。それは柔らかなタッチの和語文でつづられてゆく。その和語文のタッチは、病身の曾良を気づかう芭蕉さんの眼つきである。それは、流れるような柔らかい和語のつづりである。とくに、「ゆかりあれば」の「ゆかり」は、現在でも「縁者」という漢語を使うのが普通だろう。その文脈には、濁音さえ影をひそめた文体である。

特に秀逸なところは、「行ものゝ悲しみ、残るものゝうらみ」と、ミ音(おん)を重ねている部分である。

みなさん、因(ちな)みに、「ミ(mi)」という音(おん)を意識して発音し、その場合の唇の状態を考えてみてください。

それは、能面(のうめん)でいうなら「癋見(べしみ)」の表情ではありませんか。

子どもの表情とするなら、それは「泣きべそ」の顔であろう。それは、こみあげる感情を、ぐぐっと抑えたときにできる表情である。

旧暦3月末に江戸を発ってから4か月、その間苦楽を共にしてきた弟子の曾良が、病を得て今先に行く。その後ろ姿を見送る。悲しみがこみあげる。ぐっと抑えて一旦は癋見顔になるのであるが遂に、押さえきれなくなる。その表現が、

  隻鳧(せきふ)のわかれて雲にまよふがごとし。

という、突如の漢語表現である。

隻鳧とは、片割れ鳥のこと。鳧(けり)は、鳩ほどの大きさの鳥だが、名だたる鴛鴦(おしどり)より夫婦仲のよい鳥として有名である。…そんな鳥の説明などどうでも良い。和語・漢語の音調を巧みに用いる感情表現のみごとさ。これぞ日本語の美しさの極致というべきはないか。何度も暗誦を繰り返したい文章である。






【著者プロフィール】 伊東信夫(いとう・しのぶ)

1926年、山形県生まれ。白川漢字学の系譜に連なる漢字研究家。
1947年、山形の冬季分校の教師となって以来、長く教職に携わる。
現在は、漢字学の研究と共に、子どもや教師たちに漢字のおもしろさを伝えるため、各地で講演するなど、活躍中。主な共著書に「漢字カルタ」「漢字はみんな、カルタで学べる」「漢字がたのしくなる本」シリーズ(いずれも太郎次郎社)、「成り立ちで知る 漢字のおもしろ世界」シリーズ(スリーエーネットワーク)がある。
現在、立命館大学 白川静記念東洋文字文化研究所客員研究員。







漢字でよむ おくのほそ道 第22回
全昌寺

漢字でよむ 奥のほそ道
2007年9月19日



全昌寺


■ 原文 ■


大聖持の城外、全昌寺といふ寺にとまる。猶加賀の地也。曾良も前の夜、此寺に泊て、
  終宵秋風聞やうらの山
と残す。一夜の隔千里に同じ。吾も秋風を聞て衆寮に臥ば、明ぼのゝ空近う読経声すむまゝに、鐘板鳴て食堂に入。けふは越前の国へと、心早卒にして堂下に下るを、若き僧ども紙・硯をかゝえ、階のもとまで追来る。折節庭中の柳散れば 、
  庭掃て出ばや寺に散柳
とりあへぬさまして、草鞋ながら書捨つ。


原文出典:『芭蕉 おくのほそ道』岩波書店



■ 訳 ■


大聖寺藩の城外、全昌寺という寺に宿泊。ここはまだ、加賀の国である。

曾良も昨夜、この寺にとまって、

  終宵(よもすがら)秋風聞やうらの山

と、一句を残している。別れを思うと、なかなか寝付かれなかったのだろう。僅か一日しか経っていないのに、蘇東坡(そとうば)の言う「一夜の隔(へだて)千里に同じ」の思いである。

私もまた、秋風を聞きながら寝に就いたのだが、もう、曙(あけぼの)も近いのであろう。朝のおつとめの読経の声がきこえている。…朝食の合図の鐘板がなったので食堂に入る。

今日はいよいよ越前の国へ…と、そそくさと食堂の階段を下っていくと、若い僧たちが紙・硯(すずり)をかかえ、サインを求めて追っかけて来る。おりから前庭には、前夜の風で柳の葉が散り落ちている。

  庭掃て出ばや寺に散柳
  (そなたたち、サインよりも、寺の掃除が先でしょう?)

と思うものの、とりあえず、草鞋をつっかけながら、サインに応じたのであった。



■ 注釈 ■


芭蕉さんの追っかけ

昔から若者は、「追っかけ」をするものであったのだろうか。

修行僧でありながらも、有名人の色紙をほしがるという欲望などは、抑えきれないのだろう。

現代の「ヨン様」の追っかけをするような心理は、昔も今も変らぬものなのだろう。



朗読して味わう日本語の文章

日本語の文章は、音訓みごとに使いこなして出来上がっている。ところが、「音読み」といっても、一様ではない。

次の部分は大正生まれの私にとっても、一気にすらすら朗読するのがむずかしいところである。その読み方を記しておこう。

一夜(いちや)の隔(へだて)千里に同じ。吾(われ)も秋風(あきかぜ)を聞(きき)て衆寮(しゅうりょう)に臥(ふ)せば、明(あけ)ぼのゝ空近(ちこ)う読経(どきょう)声すむまゝに、鐘板(しょうばん)鳴(なり)て食堂(じきどう)に入(いる)。けふは越前の国へと、心(こころ)早卒(そうそつ)にして堂下(どうか)に下るを、若き僧ども紙・硯をかゝえ、階(きざはし)のもとまで追(おい)来る。折節(おりふし)庭中(ていちゅう)の柳散れば、
  庭掃て出(いで)ばや寺に散(ちる)柳(やなぎ)
とりあへぬさまして、草鞋(わらじ)ながら書(かき)捨(す)つ。

この心地よい日本語の響きは、朗読で吟味することによって味わえるものであるが、なかでも、

鐘板(しょうばん)鳴(なり)て食堂(じきどう)に入(いる)。

という一文は、ずっしりと、胸に響くところである。

悪食(あくじき)といい、乞食(こつじき)といい、断食(だんじき)という。

仏教用語に語源をもつことばの中には、「食(しょく)」「食(じき)」と発音する場合もあるが、「食堂」を「じきどう」と読む例はあまりない。然し、この文脈では、「じきどう」と読む。そのほうが、おもおもしく、ふさわしい。

「食」を「じき」と発音するほうが、「食」とは、ただ、空腹を充たすということではなく、天地から授かった恵みを頂くという響きがあるように思えてならないのであるが、どうでしょう。


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【著者プロフィール】 伊東信夫(いとう・しのぶ)

1926年、山形県生まれ。白川漢字学の系譜に連なる漢字研究家。
1947年、山形の冬季分校の教師となって以来、長く教職に携わる。
現在は、漢字学の研究と共に、子どもや教師たちに漢字のおもしろさを伝えるため、各地で講演するなど、活躍中。主な共著書に「漢字カルタ」「漢字はみんな、カルタで学べる」「漢字がたのしくなる本」シリーズ(いずれも太郎次郎社)、「成り立ちで知る 漢字のおもしろ世界」シリーズ(スリーエーネットワーク)がある。
現在、立命館大学 白川静記念東洋文字文化研究所客員研究員。







漢字でよむ おくのほそ道 第23回
大垣

漢字でよむ 奥のほそ道
2007年9月26日



大 垣


■ 原文 ■


露通も此みなとまで出むかひて、みのゝ国へと伴ふ。駒にたすけられて大垣の庄に入ば、曾良も伊勢より来り合、越人も馬をとばせて、如行が家に入集る。前川子・荊口父子、其外したしき人々日夜とぶらひて、蘇生のものにあふがごとく、且悦び、且いたはる。旅の物うさもいまだやまざるに、長月六日になれば、伊勢の遷宮おがまんと、又舟にのりて、
  蛤のふたみにわかれ行秋ぞ

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原文出典:『芭蕉 おくのほそ道』岩波書店



■ 訳 ■


(はじめ、同伴者に予定されておった)露通も、この敦賀の港まで出迎えてくれ、美濃の国へと同道する。馬に助けられて大垣の庄に入れば、曾良も伊勢からここまでやって来ており、越人も馬をとばして宿所である如行の家に集まる。

それからというもの、前川子・荊口父子その他、親しい人々は日毎夜毎尋ねてくれて、まるであの世から蘇ったものと再会するよう。悦びあい、そしていたわりあう。

ところで、今年の9月6日は、21年目の伊勢遷宮の年である。ぜひとも参拝に出かけなくてはならない。旅のつかれの未だ残った状態ではあるけれど、かの二見が浦へと、旅立たなくてはならない。伊勢湾の名物は蛤。その蛤の二つ身に分かれるように―。

  蛤のふたみにわかれ行秋ぞ



■ 注釈 ■


春夏秋冬を括弧(かっこ)する ―「おくのほそ道」の構成

昔私立中学校において、「おくのほそ道」を教材にしたことがある。
一章々々、手書きのプリントを作って最終章を配ったとき、生徒たちは大いに感動の表情をした。

最後が「行く秋ぞ」ということばで括られていることについてである。
「行春や鳥啼魚の目は泪」の、「行く春や」で始まり、「行く秋ぞ」でしめくくる。その時間の括り方に感動するというのである。

もちろん途中の紀行文の豊かさもさることながら、春夏秋冬、四季それぞれ豊かな日本の風土を見事に括っているではないか、というのである。

「おくのほそ道」の作品の完成は、その跋文(ばつぶん…あとがき)によれば、元禄7年初夏、実際の旅立ちは、それより、5年前の元禄2年、旧暦の3月27日である。芭蕉さんが45歳の時であり、約6か月におよぶ長途の旅であった。

旅には、始まりがあって、終りがある。そしてその間は、旅のつづきである。…つづきといっても、それは一様にして、唯、のっぺりしたつづきではない。それは節目(ふしめ)節目のある流れであるのが普通である。

「おくのほそ道」の文章にも、その節目節目がうつしだされている。いわゆる「起承転結」のある作品である。では、「おくのほそ道」の起承転結の「起」はどこであるか。それは、いうまでもなく、春3月の旅立ちの時であるのかといえばそうではない。

「おくのほそ道」という作品の「起」は「白川の関」の章である。それは、文章上に、あきらかに表現されている。即ち、「心許(こころもと)なき日かず重るまゝに、白川の関にかゝりて旅心定りぬ。」と書かれているではないか。

三段跳びという競技に喩(たと)えよう。白川の関に到るまでの部分は、助走の部分である。もしかすると、それにつづく、跳躍の部分は実現しないかもしれない部分である。

“白川の関にかかりて旅心定りぬ”

だから、ここからが「ホップ、ステップ、ジャンプ」、起承転結の部分となる。

「白川の関」が「起」であり、「市振の関」が「転」、そして、その間が「承」であり、「市振の関」のあとは、一気に「大垣」の「結」へとすすむ。

日本の一年間は、ただの、のっぺらとした時間の流れではなく、春夏秋冬、四季のある時間である。

それと同じように「おくのほそ道」も、起承転結のある作品なのである。










【著者プロフィール】 伊東信夫(いとう・しのぶ)

1926年、山形県生まれ。白川漢字学の系譜に連なる漢字研究家。
1947年、山形の冬季分校の教師となって以来、長く教職に携わる。
現在は、漢字学の研究と共に、子どもや教師たちに漢字のおもしろさを伝えるため、各地で講演するなど、活躍中。主な共著書に「漢字カルタ」「漢字はみんな、カルタで学べる」「漢字がたのしくなる本」シリーズ(いずれも太郎次郎社)、「成り立ちで知る 漢字のおもしろ世界」シリーズ(スリーエーネットワーク)がある。
現在、立命館大学 白川静記念東洋文字文化研究所客員研究員。







漢字でよむ おくのほそ道 第24回
おわりにあたって

漢字でよむ 奥のほそ道
2007年10月3日



おわりにあたって



日本語は、漢字を音・訓両用、それを自在に使いこなすことによって、その表情が豊かになり美しくなった。それを例証するためにこのレポートの題名を「漢字でよむ おくのほそ道」としたのである。

日本語は、漢字を見事に使いこなすことによって美しいものになったことは、「白川文字学」によって知ることができた。

白川博士は、その例証に、よく万葉集の作品を用いられる。詳しくは、博士の著作「初期万葉論」及び「後期万葉論」にゆずることにするが、例えば、

昼見れど飽(あ)かぬ田児(たご)の浦大王(おおきみ)のみことかしこみ夜見つるかも
(万葉集・巻三・297) 田口益人

という一首があり、従来、景色を詠んだ「叙景歌」と解釈されてきた歌である。

大正・昭和時代の大歌人、斎藤茂吉翁も、その著作「万葉秀歌(上巻)」(岩波新書)の135ページに、

「此一首は、昼見れば飽くことのない田児浦のよい景色をば、君命によって赴任する途上だから夜見た、というので、昼見る景色はまだまだ佳いのだという意が含まっているのである。」

と述べている。

白川博士は、この解釈を否定している。

富士の景色を見るということは、東洋の伝統的風習によれば、霊峰富士の神に対し、礼を捧げるということなのである。

従ってこの一首は、天皇の命令によって、急ぎ任地に赴かねばならず、心ならずもその礼を尽すことができない、ごめんなさい・・・という意味なのであるという。

つまり、「通過」に際しては、その地の神に対し、厚い礼を捧げ、しかも献歌をする、という、古代からの東洋における風習の、ひとつの顕れなのであるという。

その東洋、東アジアの古代からの風習の中に漢字は生まれ、伝わった日本列島も、共通する風習の地であったから、美しく根づき開花するのである。それを、「万葉集」の作品によって例証したのが、白川静博士であり、私は、「おくのほそ道」においても同様のことができるであろうと考えたのである。

漢字に「順」と「訓」という字がある。どちらも「川」を部分とする字である。「順」は、川の難所を渡る際、その河神に祈りを捧げる形であり、「訓」は、そのとき捧げる歌である。

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万葉集の「昼見れど飽かぬ」の一首は、霊峰富士の神に対する非礼を詫びる歌である。

そして、「おくのほそ道」白河の関の、一枝の卯の花は、関の神への礼装である。その共通性。

漢字は、そのような東洋(東アジア)の文化・風俗を内包して生き続け、これからも生きていくであろう。

私の「漢字でよむ おくのほそ道」は、そのことを例証する、ひとつの小さな試みであります。











【著者プロフィール】 伊東信夫(いとう・しのぶ)

1926年、山形県生まれ。白川漢字学の系譜に連なる漢字研究家。
1947年、山形の冬季分校の教師となって以来、長く教職に携わる。
現在は、漢字学の研究と共に、子どもや教師たちに漢字のおもしろさを伝えるため、各地で講演するなど、活躍中。主な共著書に「漢字カルタ」「漢字はみんな、カルタで学べる」「漢字がたのしくなる本」シリーズ(いずれも太郎次郎社)、「成り立ちで知る 漢字のおもしろ世界」シリーズ(スリーエーネットワーク)がある。
現在、立命館大学 白川静記念東洋文字文化研究所客員研究員。