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漢字でよむ おくのほそ道 第24回
おわりにあたって

漢字でよむ 奥のほそ道
2007年10月3日



おわりにあたって



日本語は、漢字を音・訓両用、それを自在に使いこなすことによって、その表情が豊かになり美しくなった。それを例証するためにこのレポートの題名を「漢字でよむ おくのほそ道」としたのである。

日本語は、漢字を見事に使いこなすことによって美しいものになったことは、「白川文字学」によって知ることができた。

白川博士は、その例証に、よく万葉集の作品を用いられる。詳しくは、博士の著作「初期万葉論」及び「後期万葉論」にゆずることにするが、例えば、

昼見れど飽(あ)かぬ田児(たご)の浦大王(おおきみ)のみことかしこみ夜見つるかも
(万葉集・巻三・297) 田口益人

という一首があり、従来、景色を詠んだ「叙景歌」と解釈されてきた歌である。

大正・昭和時代の大歌人、斎藤茂吉翁も、その著作「万葉秀歌(上巻)」(岩波新書)の135ページに、

「此一首は、昼見れば飽くことのない田児浦のよい景色をば、君命によって赴任する途上だから夜見た、というので、昼見る景色はまだまだ佳いのだという意が含まっているのである。」

と述べている。

白川博士は、この解釈を否定している。

富士の景色を見るということは、東洋の伝統的風習によれば、霊峰富士の神に対し、礼を捧げるということなのである。

従ってこの一首は、天皇の命令によって、急ぎ任地に赴かねばならず、心ならずもその礼を尽すことができない、ごめんなさい・・・という意味なのであるという。

つまり、「通過」に際しては、その地の神に対し、厚い礼を捧げ、しかも献歌をする、という、古代からの東洋における風習の、ひとつの顕れなのであるという。

その東洋、東アジアの古代からの風習の中に漢字は生まれ、伝わった日本列島も、共通する風習の地であったから、美しく根づき開花するのである。それを、「万葉集」の作品によって例証したのが、白川静博士であり、私は、「おくのほそ道」においても同様のことができるであろうと考えたのである。

漢字に「順」と「訓」という字がある。どちらも「川」を部分とする字である。「順」は、川の難所を渡る際、その河神に祈りを捧げる形であり、「訓」は、そのとき捧げる歌である。

8順.jpg


万葉集の「昼見れど飽かぬ」の一首は、霊峰富士の神に対する非礼を詫びる歌である。

そして、「おくのほそ道」白河の関の、一枝の卯の花は、関の神への礼装である。その共通性。

漢字は、そのような東洋(東アジア)の文化・風俗を内包して生き続け、これからも生きていくであろう。

私の「漢字でよむ おくのほそ道」は、そのことを例証する、ひとつの小さな試みであります。











【著者プロフィール】 伊東信夫(いとう・しのぶ)

1926年、山形県生まれ。白川漢字学の系譜に連なる漢字研究家。
1947年、山形の冬季分校の教師となって以来、長く教職に携わる。
現在は、漢字学の研究と共に、子どもや教師たちに漢字のおもしろさを伝えるため、各地で講演するなど、活躍中。主な共著書に「漢字カルタ」「漢字はみんな、カルタで学べる」「漢字がたのしくなる本」シリーズ(いずれも太郎次郎社)、「成り立ちで知る 漢字のおもしろ世界」シリーズ(スリーエーネットワーク)がある。
現在、立命館大学 白川静記念東洋文字文化研究所客員研究員。








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