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漢字でよむ おくのほそ道 第12回
平泉

漢字でよむ 奥のほそ道
2007年7月11日



平 泉


■ 原文 ■


三代の栄耀一睡の中にして、大門の跡は一里こなたに有。秀衡が跡は田野に成て、金鶏山のみ形を残す。先高館にのぼれば、北上川南部より流るゝ大河也。衣川は和泉が城をめぐりて、高館の下にて大河に落入。泰衡等が旧跡は、衣が関を隔て、南部口をさし堅め、夷をふせぐとみえたり。偖も義臣すぐつて此城にこもり、功名一時の叢となる。「国破れて山河あり、城春にして草青みたり」と、笠打敷て、時のうつるまで泪を落し侍りぬ。
  夏草や兵どもが夢の跡
  卯の花に兼房みゆる白毛かな   曾良

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原文出典:『芭蕉 おくのほそ道』岩波書店




■ 訳 ■


奥州藤原三代(清衡・基衡・秀衡)の繁栄も、歴史の上から見れば、ほんのひと眠りの間、現にその館跡のすがたは、といえば、南大門の道は、館跡の一里手前にあり、秀衡の居館「伽羅御所」の跡も今は、田畑となって、平泉鎮護のために造られた金鶏山だけがその形を残しているという状態である。

それで、まずは、義経の居館のあった高館に登ると、眼下は、南部地方から流れてくる北上の大河。

弁慶最期の地であった衣川は、和泉が城をめぐって高館の下で北上川に合流する。

三代目の当主秀衡の次男である泰衡たちの旧館跡は、衣が関をへだてて、南部口を堅め、北方からの蝦夷(えぞ)の侵入を防ぐものだっただろう。

それにしても、高館は、武蔵坊弁慶をはじめとする忠臣たちが、最後まで主君源義経を守って立てこもった所である。

その、名将義経の最期の場所であるこの館跡も、今は、ただの叢(くさむら)なのである。

  国破れて山河あり 城春にして草青みたり

という、有名な杜甫(とほ)の「春望」に詠われている現実が、今ここにある思い。

しばらくは、滂沱(ぼうだ)と涙を流して、草の上にただ座るだけである。

  夏草や兵どもが夢の跡

そして、ここも、卯の花の盛り。この花の白さも、最後まで義経を守って奮戦した、老臣の兼房の白髪頭が想像されるようである。

  卯の花に兼房みゆる白毛かな   曾良




■ 注釈 ■


義経の最期

源九郎判官義経(みなもとのくろうはんがんよしつね)。

鎌倉幕府を興した兄源頼朝をたすけて平家を滅亡させるのだが、その後、頼朝の怒りをかうこととなり、武蔵坊弁慶をはじめとする、ごく僅かの忠臣とともに諸国を流浪。

最後に奥州の藤原秀衡のもとに身を寄せる。少年時、鞍馬寺から出て、成人するまで育ったところである。

しかし、秀衡の死後、その子泰衡に急襲されて、衣川の高館にて自殺。

薄命の英雄として伝説化されていて、そして日本人はみな、この義経贔屓であるとされる。

いわゆる「判官贔屓(ほうがんびいき)」であり、不遇な者や弱者に対する同情がつよいのである。

実際、義経の落ちのびた跡には、多くの伝説が今に到るまで残っている。

これ程伝説の多い人物は、義経をおいて他にはいない。

考えてみると、「おくのほそ道」の行程のうち約半分、つまり、平泉以降の道は、義経の通った道を逆に辿ったことになるわけである。

芭蕉さんの旅も、その途々、多くの義経伝説と出逢わないはずはなかった。

しかしそれも今は、「兵どもが夢の跡」だったのである。





【著者プロフィール】 伊東信夫(いとう・しのぶ)

1926年、山形県生まれ。白川漢字学の系譜に連なる漢字研究家。
1947年、山形の冬季分校の教師となって以来、長く教職に携わる。
現在は、漢字学の研究と共に、子どもや教師たちに漢字のおもしろさを伝えるため、各地で講演するなど、活躍中。主な共著書に「漢字カルタ」「漢字はみんな、カルタで学べる」「漢字がたのしくなる本」シリーズ(いずれも太郎次郎社)、「成り立ちで知る 漢字のおもしろ世界」シリーズ(スリーエーネットワーク)がある。
現在、立命館大学 白川静記念東洋文字文化研究所客員研究員。






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