
2007年5月16日
旅 立
■ 原文 ■
弥生も末の七日、明ぼのゝ空朧々として、月は在明にて光おさまれる物から、不二の峰幽にみえて、上野・谷中の花の梢、又いつかはと心ぼそし。むつましきかぎりは宵よりつどひて、舟に乗て送る。千じゆと云所にて船をあがれば、前途三千里のおもひ胸にふさがりて、幻のちまたに離別の泪をそゝぐ。
行春や鳥啼魚の目は泪
是を矢立の初として、行道なをすゝまず。人々は途中に立ならびて、後かげのみゆる迄はと、見送なるべし。
原文出典:『芭蕉 おくのほそ道』岩波書店
■ 訳 ■
旧暦3月27日、春霞に明けた空には、遥かな富士の眺望とかすかな残月。
上野の山の花見も再びかなうだろうかと心ぼそい。
親しい人々は、昨夜から別れの宴をもうけてくださり、いっしょに隅田川を舟で上る。
千住にて上陸。ここがはるかなる旅の出発点であり、人々との別れの地点でもあるかと思えば、万感胸にせまるものがある。
行春や鳥啼魚の目は泪
これを旅の第一作としたのであるが、なかなか足取りがすすまない。見送る人々も道に立ちつくしたまま立ち去りかねるようである。
■ 注釈 ■
「別れ」の表現
「むつましきかぎりは宵よりつどひて、舟に乗りて送る。」…と、やわらかな和文調の文で進んできたのが、突如「前途三千里」と、漢語調に変わり、そして、「離別の泪をそゝぐ」とつながる。
これは睦(むつ)ましかった人々との「別れ」の表現である。
「別れ」が、ぷつん!と音を立てているようだ。
…「離別の泪」という漢語表現に注意。
「前途三千里のおもひ胸にふさがりて、幻のちまたに離別の泪をそゝぐ」と、声に出してよんでほしい。
「離別の泪」が、「別れのなみだ」と置き替えられたら、なんと目茶苦茶で話にならないことか。
・・・「別離の泪」であってさえ、すてきな音感にはならないことがわかるだろう。

”鳥啼魚の目は泪”について
ここは、鳥啼く春と、老いたる吾を対比している表現である。
「魚の目に泪」を漢字にすると
そして、「魚」は、漢字の世界では、女性の意味。
「鰥」とは、連れ合いの婆さんに先立たれて、よよと涙をながすやもめの爺さんのことをいうのである。
だから、「魚の目の泪」とは、男性の老いたるものなのである。
【著者プロフィール】 伊東信夫(いとう・しのぶ)
1926年、山形県生まれ。白川漢字学の系譜に連なる漢字研究家。
1947年、山形の冬季分校の教師となって以来、長く教職に携わる。
現在は、漢字学の研究と共に、子どもや教師たちに漢字のおもしろさを伝えるため、各地で講演するなど、活躍中。主な共著書に「漢字カルタ」「漢字はみんな、カルタで学べる」「漢字がたのしくなる本」シリーズ(いずれも太郎次郎社)、「成り立ちで知る 漢字のおもしろ世界」シリーズ(スリーエーネットワーク)がある。
現在、立命館大学 白川静記念東洋文字文化研究所客員研究員。
